21日の台湾中央社紙には「米駐台代表、高雄の軍事施設を訪問米在台協会がSNSに公開、異例」、「米が新型F16売却を通告、66機国防部、2026年全機受領目指す」、「『民主主義がインド太平洋で最良の政府の形式』前豪国防相、台湾で講演」、そして「蔡総統、香港の例は『民主と独裁の両立不可能を証明』」と、台湾の置かれた現状への切迫感が伝わる見出しが並んだ。
台湾贔屓の筆者の胸中には記事それぞれに様々な思いが過る。まずに3番目と4番目の記事の発言の場が「ケタガランフォーラム:2019アジア太平洋の安全保障対話」であること。「ケタガラン」とは平埔族の一種族だ。原住民のうち平地に住んで17世紀以降に渡台した漢人と混血し、本省人の多くにそのDNAが混じるとされる平埔族で、北部基隆辺りに居住した。
自身も南部屏東の出身で母方が平埔族とされる蔡英文総統らしい命名だ。が、それはさて措き、このフォーラムには米国のグレグソン元国防次官補や豪州のパイン前国防相など内外の学者、専門家約20人が参加し、台湾海峡の安全保障や中国の南シナ海における動きや戦略が持つ意味などについて議論したという。
日本の参加は不詳だが、インド太平洋地域の海洋安保と法の支配が日本の国益である以上、中国に気兼ねせず小野寺五典議員辺りを参加させるべきだった。パイン氏は、香港人の抗議活動を通じた意見表明を支持した上で、中国と香港の動きは地域全体に大きな影響をもたらすとし、中国が自由、法治、規則に基づいた国際秩序などの原則で香港の問題を処理することが重要と述べた。
蔡総統がこの場で、武力行使を放棄せず一国二制度を迫る中国に言及し、香港の例を引いて民主主義と独裁が相容れないことは証明されたと述べ、断固として脅迫に屈せず、自由と民主主義を守る姿勢を示したのも頼もしい限りだ。日本がこうした場で正論を吐かないようでは世界から見識が疑われよう。
そこで一番目と二番目の見出しの話になる。米国は台湾との国交を1979年1月1日を以て断絶したので大使館がない。その代役を果たしているのが「米国在台協会(American Institute in Taiwan:AIT)だ。台湾側も米国に駐米台北経済文化代表処を置いているのは、日本と台湾がそれぞれ日本台湾交流協会と台湾日本関係協会を置いて実務処理の窓口としているのと同じ。
AITに関しては、2.5億ドル掛けた新台北事務所の昨年6月の落成式に、3月に成立した「台湾旅行法」に基づいて米国政府高官が出席したり、5月には2005年から海兵隊が駐屯していたことを明らかにしたりと中国を刺激する出来事があった。中国も猛烈な非難をしたが、トランプ大統領は歯牙にも掛けずことを進めた。
そのクリステンセン台北事務所所長が高雄の軍事施設を訪問し、その様子がAITのフェイスブックなど写真と共に投稿された。AITが台湾の軍事施設訪問を公表するのは異例で、AITの報道官はこれを「台湾関係法」制定40周年を記念するイベントの一環だとした。同所長は国民党の韓国瑜高雄市長も訪問したが、単なる外交儀礼に過ぎないと筆者は思う。
最後の武器売却の話は、AITとも絡めて紙幅の許す限り詳しく見てゆきたい。主な参考文献はAITの二代目所長ジェームズ・リリーの回想録『チャイナハンズ』(草思社)だ。
ベトナム戦争の泥沼に嵌った米国は71年7月、キッシンジャー補佐官を中国に極秘派遣し、これまた文化大革命の失敗とソ連との国境紛争で苦境にある中国と連携してソ連の覇権に対抗する策に出た。同年10月、国連は中国の加盟を承認し台湾は脱退した。米国は蒋介石独裁の台湾が早晩中国に併呑されると考えていたが、米国は反対票を投じたので国交は暫時継続した。
明けて72年2月、共和党ニクソン大統領が北京を訪問し上海コミュニケが発表された。米国は中国を唯一の政府として認める、米国は台湾独立を支持しない、中国は台湾問題の平和的解決する、などが謳われた。同年9月には日中共同声明が出されて日本と台湾が国交を断絶した。
79年1月、民主党カーター大統領は二回目の共同コミュニケを出し、米国は中国を承認した。同年4月米議会は実質的な米台軍事同盟「台湾関係法」を成立させた。ロナルド・レーガンとジョージ・ブッシュの共和党正副大統領が誕生したのは80年11月6日のことだ。この時、CIA工作員から中国大使まで歴任していたリリーはレーガン政権の国家安全保障会議NSCの一員になった。
レーガン政権の国務長官アレキサンダー・ヘイグは、中国をソ連に対抗する存在と見做す「中国派」で、最新兵器を台湾と中国とに売却すべきと考えていた。レーガン政権は北京との軍事関係強化を検討し、中国への最新兵器売却制限の緩和を内々決めたが、日本や台湾に通知するまで秘密にしていた。ところが81年6月に北京を訪問したヘイグは、政権の承認なしにこれを記者会見で暴露した。
同行していたリリーはアレン国家安全保障担当補佐官とワインバーガー国務長官に至急電を送った。レーガン大統領はこれを受けて同日中に記者会見を開き、台湾関係法履行義務の再確認と、同法中の台湾への武器売却の項目の強調に努めた。この政権初期には国務省やCIAそして国防総省内にも中国派(上海コミュニケ当時の台湾併呑派)が多く、リリーは敢えて台湾寄りの姿勢を取ったと書いている。
以来中国は台湾向け武器売却の終了期限設定に合意するよう米国に圧力を掛けた。中国は78年当時にカーター政権がそれを約束したと主張した。が、NSCファイルにはそのような文書は存在しなかった。足並みの乱れを見抜いた中国はヘイグとハメル大使に対し、米国との外交関係を格下げすると脅した。
81年10月後半にヘイグはNSCの頭越しに、武器売却のレベルはカーター政権当時を超えないものとし、一定期間内にその質と量の両方に落とすことを中国と合意するよう訴えるメモを、レーガン大統領に提出した。
丁度その頃、二代目のAIT所長として台湾への赴任を命ぜられたリリーは、他の11名の新任大使と共に大統領への謁見を許された。最後に執務室に入ったリリーにレーガンは椅子を勧め、かつて蒋介石と面会した時に話をリリーに聞かせた。
レーガンはその時、仏頂面の蒋介石に向かって米国がなぜ中国に手を差し伸べるのか説明する立場だった。「連携してソ連に当たるためだ」と答えても、「中国を国際社会の影響にさらすためだ」と答えても表情を変えなかった蒋介石が、「それは米国の国益のためだ」と告げると、ゆっくりと頷いたという。
レーガンを大いに尊敬するトランプの「Make America Great Again!」を彷彿する話だが、筆者は蒋介石を少しだけ見直した。謁見の最後にレーガンは「私は台湾の人々が好きだということを忘れないでほしい」とリリーに念を押した。しかし政権は82年1月、台湾へのFX戦闘機売却の中止を発表した。
台湾に赴任したリリーは、30年ぶりに見る台湾のその開かれた社会と経済の発展ぶりに強く印象付けられた。73年から2年間大使として滞在した中国と比べ、台湾は活気と斬新な発想に満ち溢れ、住民は米中国交正常化を粛々と受け止め、海峡対岸の中国人を「共産主義の匪賊」というよりも「圧政に苦しむ同胞」と同情的に見るようになっていた。
FX戦闘機を台湾に売却しないことにしたにも拘らず、82年の晩春に中国は計画中の上海コミュニケ10周年コミュニケに、台湾への武器売却停止の「最終期限」を盛り込むよう圧力を掛けた。81年後半、ヘイグは台湾への武器売却の質と量を低減させることを中国に認めてしまっていたが、その期限だけは未定だったのだ。
ヘイグは82年6月、自身の回顧録に「米中関係の将来はレーガンが(鄧小平)に出す回答にかかっていた」と書いたメモを大統領に提出した。レーガンはメモに書かれた台湾への武器売却打ち切り提案を拒否した。中国は結局、「武器売却は段階的に減らし、一定期間後に最終解決する」と書かれた「八月コミュニケ」に同意した。
レーガン大統領は8月17日に「八月コミュニケ」解釈の指針となる大統領指令のメモを作成し、更迭されたヘイグに代わって国務長官となったシュルツとワインバーガー国務長官が署名してNSCの金庫に納められた。そこにはこう書かれている。
米国が台湾への武器売却を低減させる意志は、中国が中台問題の平和的解決を目指す約束を引続き遵守することを絶対的な前提としている。・・台湾へ提供する武器の質と量は、中国からの脅威に応じて決めることが肝要である。台湾の防衛能力と中国の軍事力との相対的均衡は、質、量ともに維持されなければならない。
土壇場でコミュニケに違和感を覚えて上記のメモを作ったレーガンにとって、台湾海峡両岸の軍事バランスを保つことが米国外交の出発点だった、とリリーはこの37年前の8月の出来事を結んでいる。
高橋 克己 在野の近現代史研究家
メーカー在職中は海外展開やM&Aなどを担当。台湾勤務中に日本統治時代の遺骨を納めた慰霊塔や日本人学校の移転問題に関わったのを機にライフワークとして東アジア近現代史を研究している。