愛知トリエンナーレの検証委員会が活動開始

上山 信一

8月16日の第一回委員会の議事録(全体は、こちら)から私の意見部分を転載します。

あいちトリエンナーレ2019サイトより:編集部

(上山副座長)
私は、残念ながら今まで「あいちトリエンナーレ」を見たことがありませんでした。しかし、今回が4回目で毎回約60万人もの来場者を集め、大変素晴らしいイベントであると再認識しました。

今回については、先ほど事務局から説明があった通り、テーマとコンセプトが「情の時代」です。資料に津田監督の力のこもった文章が書かれているが、一番最初に出てくる文字が「政治」です。「政治は可能性の芸術である」という核心に突っ込んだところから今回の意図を説明していて、図らずしてあちこちに、今回の問題につらなる言葉が書いてある。

「世界を対立軸で解釈することはたやすいけれども、グレーであるものを白と決めつけていいのか」とか「情報が多すぎる」とか、非常に鋭い論点を出している。

今回のテーマ自体は、私は、アートの力で政治に迫るという非常に意欲的なものであったと思う。しかも、そこにジャーナリストの津田さんを選んだという人材の登用は、非常に斬新で、高く評価したいと思う。

しかし、その中の一部の「表現の不自由展・その後」は、展覧会内の展覧会という非常に特殊な位置づけであったと思う。

つまり過去に東京で、ほかの団体の方々が企画した展覧会で、各地で禁止された作品を集めた企画があった。今回はそれを招いてもう一度展示しようという展覧会だ。プラスアルファでその後に展示中止になったものを加え、その企画団体にお願いをして、実施した。ある意味非常に特殊な展覧会であったと思う。

「表現の不自由展・その後」サイトより:編集部

特殊なものには特殊な体制が必要だったと思うが、残念ながらそれができなかったのでしょう。結果的に中止となった。私が懸念するのは、それだけではなく、いろんな美術館や公共のイベントにおいて、政治的だからやめておこうという自粛とか、忖度とか、そういう空気が広がるのはよくないと思う。

それは、芸術祭、美術館にとって非常によくないし、政治にとってもよくないし、社会全体にとってもよくない。ということで、中止のままではなく、総括をして、検証をするのだが、今後どういう形で状況を前向きに変えていくか。リカバリーに向けた検証をやるというのが、我々の使命だと考えている。

どのあたりを中心に検証すべきかだが、私はアートに関しては素人なので、どこまで仮説が当たっているのか分からないが、第一に展示のやり方、コンテンツ、出されたものの問題。それから第二に展示に到るまでのプロセスの問題の、二つがあると考える。

出された展示については、私はもっと工夫ができたのではないかと考える。

不自由をテーマにするのであれば、例えば不自由になった原因には、それぞれの施設の意思決定がある。 例えば、東京都立美術館は、2012年、2014年、2016年と3回中止している。それから、全国各地の公立や民間企業の施設がいろんな形で、一旦展示としたものの許可を取り消したり、中止したりしている。

なぜ中止になったのか、中止になってしまうことの良し悪しを考えることが主体であって、作品そのものはそれとセットで鑑賞すべきものではなかったのか。しかしながら、キュレーションというか展示方法が不十分ではなかったのかと考える。

その結果、一般の方が、トリエンナーレを楽しもうと思って準備なく見に来られると、一部にはこれは政治プロパガンダだと感じてしまわれることは否定出来ないと思う。それも、特定の考え方に偏ったものじゃないかと思われてしまうことがありうる。

それに対して、あれはアートの表現の自由だという主張をしても議論が噛み合わない。批判する人は政治プロパガンダと思い、美術館側は特殊な空間のアートだと言っていても議論が噛み合わない。

これには対話が必要であるし、対話に対話を重ねないと、なかなかアートと政治というものは、お互い分かり合えない。そしてそれ自体が、津田監督が言っている、斬新なテーマそのものに突き刺さる難しい状況なんだろうと思う。

具体的には、例えばあの展示を見せる前に、「表現の自由」とは何か、という基本的な勉強セッションをする。

あるいは、表現の自由については、各国でいろいろな議論があり、絶対的な結論がなかなか出ていないとか、時代によって表現の自由の範囲というものが、ヨーロッパでもアメリカでも少しずつ変わっているんだとか、とても悩ましいテーマだということを予告した上で、表現の自由について勉強した人を前提に作品を見せるなど。

そうしたいろんな工夫をしないと、表現の自由を訴えるという目的はなかなか達成出来なかったのではないかと思う。

これはキュレーションなのか、アートを越えた工夫なのか分からないが、何か工夫や努力をしないと、作品を持ち込んだところまではよかったが、受け手にちゃんとしたメッセージが伝わらなかったのだと思う。

もう一つ、そうなってしまった経緯として、契約が不十分だったのではないかと思う。この「不自由展・その後」を東京でやっていた方々とこちらの実行委員会の間には民事契約がある。「不自由展」側には、自分たちがやってきたことをできるだけそのまま展示したいという意向があるのは当然だろう。しかしながら、こちらの実行委員会側には会場の制約もある。そこの協議が、通常の契約のように、お互い話し合うという枠組みで処理しきれたのかどうか。このあたりをはっきり検証していく必要がある。

あと施設管理面、動線といった物理的なこともある。規定をみると、芸術監督には、決定したり助言したりする権限はあるが、実施するのは誰か、つまり実施責任や実施主体が文書には書かれていない。運営会議はあるけれども、結局、誰が実施面の具体的な精査をするのかがあまりはっきりしていない。芸術監督はいろんな工夫をされたかと思うが、組織だったシュミレーションがどの程度できていたのかも分からない。これについても検証しないといけない。

総じて、過去のトリエンナーレは大成功だったし、今年もたくさんのお客さんが来て全体としては成功だと思う。しかし、ガバナンス、権限、役割分担、組織の作り方、そうした体制について、これを機に見直す工夫が必要だと思う。

展示そのものについては、既にいろんな方がいろんなことを言っている。私は、政治的文脈での発言や原理原則の発言よりも、重要なのは県民がどのくらい多様な意見を持っているか。そしてそれを皆で共有することだと思う。展示内容について問題ないという県民もいると思うし、全く逆の意見もいる。

それぞれが、なぜそういう意見になるのか、反対の意見に接した時に、逆にどう思うのか。広範な意見をもう一回集約して判断の事由にしていく必要がある。絶対的に黒とか白とか決めきれない問題だとも思うので、県民の意見が重要だと思う。

あと、作家の意図、本当は何を伝えたかったのかを、もう一度再確認する必要がある。検証が具体的にどこまで限られた時間の中でできるかという限界はあるが、本来、作家と鑑賞者の間で成立すべき対話とか、環境が成立しなかったことが一番残念である。そこをつなぐような議論をこの検証の作業に入れる必要がある。


編集部より:このブログは慶應義塾大学総合政策学部教授、上山信一氏(大阪府市特別顧問、愛知県政策顧問)のブログ、2019年8月24日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、上山氏のブログ「見えないものを見よう」をご覧ください。