国連機関トップが転職を希望する時

国連の知人から、「彼は国際原子力機関(IAEA)の事務局長選に出馬するらしい」と初めて聞いた時、正直言って驚いたが、同時に「トップが転職を願っていると聞いた部下の職員たちはどのように感じるだろうか」と思った。

▲次期IAEA事務局長選に出馬したゼルボCTBTO事務局長(CTBTOの公式サイトから)

▲次期IAEA事務局長選に出馬したゼルボCTBTO事務局長(CTBTOの公式サイトから)

天野之弥事務局長の死去(7月18日)を受け、次期事務局長の選出がIAEAの緊急課題となっているが、来月には理事会(35カ国)で決定する予定だ。次期候補者には4人が出馬しているが、その中の1人が包括的核実験禁止条約機関(CTBTO)準備委員会暫定技術事務局長を務めるブルキナ・ファソ出身のラッシーナ・ゼルボ氏(55)だ。他の3人は在ウィーン国際機関アルゼンチン代表部のグロッシ大使、フェルータIAEA事務局長代行(ルーマニア)、そしてスロバキア原子力安全委員会のジアコバ委員長だ。

ゼルボ氏は2013年8月にCTBTO事務局長に選出され、17年に2期目の任期(4年)に入った。本来ならば、任期終了は2021年7月31日だ。その任期前にIAEA事務局長の事務局長に転職しようとしているわけだ。

ウィーンの国連機関ではIAEAは花形であり、イランの核問題や北朝鮮問題で常にメディアの脚光を浴びてきた専門機関で、職員数は約2300人。一方、ゼルボ氏が務めるCTBTOは1996年9月の総会で署名が開始されたが、23年が経過してもCTBT条約は依然発効していない。すなわち、CTBTOは暫定機関に過ぎないわけだ。同時に、CTBTOのトップは2期までで3期の選出はないから、ゼルボ氏はCTBTOのトップからIAEAの事務局長に転出というより“栄転”だ。彼がそれを希望したとしても不思議ではないが、国連専門機関のトップが他の専門機関のトップに転職するケースは非常に稀だ。

彼は地球物理学者だ、CTBTOでは2004年から13年まで国際データーセンター(IDC)局長を務めてきた。ハンガリー出身のティボル・トート事務局長の任期満了後、2013年にその後任に抜擢された。当方はゼルボ氏の事務局長就任最初の年に1度単独インタビューしたが、非常に聡明な人物だ。

ところで、ゼルボ氏の本来の任務はCTBT条約を一刻も早く発効させることだ。条約発効要件国44カ国の署名・批准が前提条件だが、米国、中国、インド、パキスタン、イラン、イスラエル、エジプト、北朝鮮の8カ国はまだ未批准だ。CTBTOのサイトによれば、9月現在、加盟国は184カ国、批准国168カ国だが、条約発効に必要な44カ国の批准国は36カ国に留まっている。

CTBTOの特徴は国際監視制度(IMS)で、世界337カ所の監視施設(地震観測所、微気圧振動観測所、放射性接種観測所など)が核実験を監視している。同時に、インドネシアの大津波などの自然災害の対策にも大きく貢献してきた。

当方がゼルボ氏のIAEA事務局長選出馬で最初に懸念したことは、「職員がやる気を失うのではないか」という点だ。条約発効の見通しがない時、その機関のトップが他の機関のトップ職に転職を希望していることが分かれば、職員が「なぁーんだ、事務局長は俺たちの機関の未来を悲観して転職を願っているのだな」と受け取っても仕方がないだろう。

ゼルボ氏のために弁明するならば、CTBTOとIAEAは核問題を扱う専門機関であり、核の安全問題という点で共通点を有している。だからCTBTOからIAEAに転出したいという野望は、化学兵器禁止機関(OPCW)から国連工業開発機関(UNIDO)への転出するのとは別だ。

不幸なことは、天野氏が急死したため、次期事務局長選が前倒しで実施されることになったことだろう。天野氏が21年まで務めていたならば、彼の2期任期の満了後、ゼルボ氏はIAEAの次期事務局長選に出馬できただろう。そうなれば、ゼルボ氏の人生のプランも一層スムーズになったはずだ。

問題は彼が落選した場合だ。そして、その可能性は限りなく高い。次期事務局長候補の4人の中でもチャンスはもっとも少ない。落選した彼は2期の任期満了21年7月までCTBTOのトップを引き続き務めることになる。その場合、職員との関係はこれまで以上に難しくなるのではないか、ということだ。

職員の転職はよくあることだが、会社のトップが転職を希望していることが社員に伝わった場合、「会社のために頑張れ」と朝礼で叫んだとしても職員の心に響かないだろう。ゼルボ氏が落選した場合、CTBTの条約発効への情熱や使命感は職員から消えていくのではないか、と心配になるのだ。

ウィーン発『コンフィデンシャル』」2019年9月25日の記事に一部加筆。