あいトレの主役は愛知県民
あいちトリエンナーレ2019(以下、「あいトレ」という。)の「表現の不自由展・その後」の展示中止を受けて愛知県に設置された検証委員会が中間報告を発表し、加えて文化庁があいトレに関する補助金を不交付することを決定した。さらに愛知県の大村知事が30日、展示再開の方針を明らかにするなど、「あいトレ」を巡る騒動が再燃している。
まず今回のあいトレの騒動に関して幾つか確認しておきたい。
一つ目は「あいトレの主役は誰か?」ということである。「表現者ではないか」という回答が聞こえてきそうだが、それは正しくない。あいトレにおける表現者の位置づけは「専門家」であり医療政策で言うところの「医者」である。
表現者の存在なくしてあいトレは成立しないのだから彼(女)らに対して最大限の敬意と報酬を支払うのは当然であるが決して「主役」ではない。
あいトレの主役は愛知県民である。あいトレは地方自治体が主体的に支援しているイベントであり主役は愛知県民に他ならない。地方自治体が支援しているイベントで住民を主役としないものはない。
マスコミは表現者の「被害者」として地位を殊更、強調しているが、これは医者と患者が対立した場合、前者を「被害者」と報道しているようなものである。
二つ目は作品選定の範囲についてである。あいトレは国際的イベントであり、イベントである以上「趣旨」というものがある。だからあいトレの趣旨に反する出展は認められず、仮に出展の申し込みがあっても主催者たる実行委員会はそれを拒否することが出来る。
これは「検閲」ではなく主催者の当然の権限である。作品選定の範囲はあいトレの趣旨を超えることは出来ない。例えば「雪国」をテーマとした芸術祭で「沖縄のシーサー」のオブジェの展示の申し込みを拒否しても問題がないのと同じである。
三つ目は作品選定の「公平」についてである。あいトレは行政機関が支援するイベントであり出展についても「公平」が求められる。
作品選定の「公平」を担保するには「公募」が望ましいが、現代アートの分野では日本は遅れを取っており「公募」して表現者が集まる保証はない。だからあいトレでは実行委員会、より具体的に言えば芸術監督による作品の選定が認められるわけだが、これは大変な権限であり決して肯定的に評価出来るものではない。「公平」という観点から言えば芸術監督の権限は過剰であり普通と思うべきではない(参照:愛知県「あいちトリエンナーレ2019芸術監督の業務内容等について」)。
4つ目は津田大介氏の位置づけである。
彼はあいトレの実行委員会規約に規定された「芸術監督」であり、その立ち位置は「権力者」に他ならない。決して「表現者」の側に位置するものではない。(参照:愛知県「あいちトリエンナーレ2019実行委員会規約」)
「表現の不自由展・その後」の展示中止を決定したのは津田氏であり「表現の自由」に最も打撃を与えたのは彼である。このことは決して忘れてはならない。
中間報告には何が書かれているのか。
今回の騒動を受けて愛知県は検証委員会を設置し中間報告を発表したわけだが、あくまで上記4つの観点から総合的に評価されなくてはならない。
中間報告を読むと、検証委員会は愛知県民の存在に積極的に触れることはなく慰安婦の少女像と昭和天皇の個人写真の焼却については「あいちトリエンナーレの趣旨に沿ったものであり、妥当だった」(1)と述べる。実行委員会規約を読むとあいトレの趣旨(目的)として「地域の魅力の向上を図ること。」(2)と明記されているが、慰安婦の少女像と昭和天皇の個人写真の焼却がどうして愛知県の魅力の向上に繋がるというのだろうか。
続いて作品の選定の「公平」についてだが、例えば津田氏は「表現の不自由展実行委員会」との間で次のような取り決めを行っている。
①あいちトリエンナーレ実行委員会から支払いが行われるまでの間、不自由展実行委員会は、芸術監督に必要経費の立て替えを請求できる。
②不自由展実行委員会が作家から提訴されたときは、紛争解決に要した経費を芸術監督が負担する(3)
これは特定の作家への「特別待遇」に他ならず検証委員会もさすがにこれは「不適切」(4)
と指摘している。作家あっての作品なのだからこの一例を挙げて作品選定の「公平」には疑問を抱かざるを得ない。
少し話は逸れるがあいトレは当初、SNS写真投稿禁止を謳っていたが一部作家が勝手に解禁し津田氏がそれを追認してしまった。これも津田氏に「公平」という観点が欠如していた例である。(5)
最後にその津田氏だが検証委員会は「公私混同」(6)「出品者の公平な扱いの原則から逸脱」(7)「ジャーナリストとしての個人的野心を芸術監督としての責務より優先させた可能性」(8)
と強い調子で批判しているにもかかわらず芸術監督に津田氏を選出したことについては「人選自体に問題はなかったと思われる」(9)としている。
津田氏の責任を強調するとおそらく大村知事(会長)の監督責任にも議論が波及するからこういった結論になったのかもしれないが、芸術監督はかなり強力な権力者である。見方によっては大村知事(会長)より権力がある。
中間報告とはいえ重大な結果を招いた権力者への評価がこの程度ならば「第二、第三の津田大介」の出現は阻止出来ない。それどころか「第一の津田大介」はSNS上で補助金不交付決定への抗議の署名運動に参加しているくらい「回復」している。とても正視に耐えるものではない。
「あいちトリエンナーレ2019」に対する補助金交付中止の撤回を求めるchangeのネット署名が始まりました。今回の措置に疑問をお持ちの皆様方はご署名いただければ幸いです。https://t.co/uSMzYBCEMV
— 津田大介 (@tsuda) 2019年9月26日
やはり成長していない…
筆者は現役の地方公務員だが、過去の公立美術館に出展を拒否された作品を集めた「表現の不自由展・その後」自体に強い違和感を覚える。津田氏はこの展示を通じて何を表現したかったのだろうか。
もし過去の公立美術館の出展拒否が違法だというならば堂々とそう主張すれば良いのである。出展拒否は美術館館長の恣意で行われているわけではない。然るべき規則に沿って判断されているのである。ジャーナリストならばその規則と運用の問題点について公の場で指摘、主張すれば良いだけである。
公立美術館の出展拒否は「表現の自由」という国民の権利に関する重要なものであり、その変更を主張するのならば責任を持って公の場で行うべきである。「問題提起」の名の下、国際的芸術祭に紛れ込ませるべきテーマではない。
検証委員会は「表現の不自由展・その後」の「芸術性」を認めているが、国民の権利の変更に関わるものに安易に「芸術性」を認め正当化することはっきり言って津田氏に政治利用されているだけである。
こう書くと津田氏が「賢い」とか「術数家」という印象を持つかもしれないが、もちろんそうではない。今回のあいトレの騒動は津田氏が賢く立ち回ったから起きたのではなく、表現者でもない津田氏のような存在が立ち回れたことが問題の本質である。
今、文化庁による補助金不交付決定に対して一部表現者は強く反発し支持者と一緒に不交付撤回の署名運動をしている。
彼(女)らは一面「被害者」だから怒る気持ちはわからなくはないが、批判を覚悟で言えば筆者は「公金の支援がないと成立しないアートとは何なのだろうか」という感想がどうしても出てしまう。
現代アートの世界は何か小さくない課題を抱えており、それが津田氏の介入を招いたのではないかと勘繰ってしまう。
最後に津田大介個人について触れるが以前記した感想が補強されるだけである。
検証委員会の中間報告を見ても津田氏は作家達を全く統制出来ていない。作家達の意見を追認しているだけである。確かに作家から「現代アートの何がわかるのか!」と凄まれれば、反論は難しいかもしれないが不可能ではないはずである。
ジャーナリストとしての知識や経験は期待出来ないとしても、ジャーナリスト特有の立ち位置、つまり「市民目線」を用いれば作家達に対抗出来たはずだが、それも出来なかったようである。
若く野心もあったアングラ時代の「ネットランナーの津田大介」の方がまだ丁々発止にやれたのではないか思うときもあるが、それを言うともう目も当てられなくなり筆者の人格も疑われそうなので、ここは前回同様、津田氏の評価は「ネットランナーの津田大介」のままとし「やはり成長していない…」という言葉で筆を置きたい。
高山 貴男(たかやま たかお)地方公務員
注釈
(1)あいちトリエンナーレのあり方検証委員会 中間報告 86頁
(2) あいちトリエンナーレ実行委員会規約 3条
(3) あいちトリエンナーレのあり方検証委員会 中間報告 52頁
(4) 同上 52頁
(5) 同上 89頁を要約した。
(6) 同上 61頁
(7) 同上
(8) 同上
(9) 同上 85頁