自民党の改憲案を読んで、少々驚いた箇所があった。引用してみよう。
「日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する」
この箇所のどこが問題なのか?
こんどは日本国憲法の相対箇所を引用する。
「…ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」
制定と確定、この違いは何を意味するのか?
日本国憲法は、「『日本国民は、……代表者を通じて行動し』、『主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する』と規定し、日本国民が国民主権の原則に基づいて制定した民定憲法である」(「憲法」芦辺信喜 高橋和之 補訂 29頁)が通説になっている。
しかし、日本国憲法は帝国憲法73条の改正規定に従って成立している。これは欽定憲法であることを意味する。この矛盾をどう理解すべきか?
憲法前文を見直してみよう。
宮沢俊義氏は日本国憲法前文の「国民はこの憲法を確定する」の「確定する」の箇所を、「単に制定する意」と解していい(宮沢俊義 芦部信喜 補訂 全訂「憲法」1978 37頁)としている。果たしてそうか?
宮沢氏は同じ書で「アメリカ合衆国憲法の前文のはじめのWe,the People of the United Stateste……do ordain and establish this Constitution(われら合衆国国民は……この憲法を確定する)と良く似ている。その英訳を見れば、相似性はいっそう明らかである」(宮沢 1978 37頁)としている。
しかし、アメリカ合衆国憲法の“do ordain and establish this Constitution”の訳は、「制定し確定する」である。宮沢氏は“do ordain(制定する)”と“establish(確定する)”を「確定する」の訳で一つにしている。これは通常の訳とは違う。ほとんどはこの箇所を「制定し確定する」と訳している。
アメリカ合衆国憲法の制定過程を見てみると、1787年のフィラデルフィアで完成され、 各連邦の批准をへて1789年のアメリカ合衆国議会で修正され、議決した。つまり、憲法会議で制定(do ordain)され、合衆国議会で確定(establish)したのだが、ひるがえって日本は、国民(臣民)が帝国議会と枢密院で議決しただけで制定には関わっていない。その現実を、「確定する」の一言で表したと、考えざるを得ない。
宮沢氏は日本国憲法前文の「国民はこの憲法を確定する」の箇所を、憲法の制定手続きの事実上の経過をのべたものとはいえず、「それは、せいぜい日本国憲法は民定憲法の建前をとるもの」との意味だと、と論じている(宮沢 1978 36頁)つまり、宮沢氏は、この憲法の内実は欽定憲法だと認めているわけである。
私は、この部分の理解は宮沢氏と違って、歴史的な経緯をほぼ表していると考えるが、それゆえに欽定憲法と考える。そして、国民主権という考えは、欽定憲法という現実と矛盾する。なぜなら、国民主権なら主権は国民自ら獲得するものだからである。したがって、前文の「主権が国民に存する」という宣言と「この憲法を確定する」は明白に矛盾する。
自民党の諸氏に問いたい、今回の改憲案は、日本憲政史上初めての民定憲法の試みなのか?
さらに問いたい、現行憲法で主権が国民にあるという意味の言葉は、前文と1条にだけあるが、現行憲法の中身が国民主権に沿った内容か検討したのか否か? たとえば、憲法改正をさだめた96条は発議こそ国会だが、天皇が、国民の名でとはいえ、公布するのは、国民主権の主旨に沿っていないのでは? 国民主権なら、国民の代表者自らが公布するのが筋ではないか? つまり、憲法の内実も国民主権に沿っていないと考えざるを得ない。
そして最後に、現行憲法を民定憲法だと主張する憲法学者に「そう主張する根拠は何か」とたずねてほしい。
私が調べた限り、現行憲法を民定憲法とする適切な論も証拠も、発見する事ができなかったが、木村草太氏は林知更氏の言葉を引いて、「今、日本は第一共和制の時代」(「憲法と言う希望」講談社現代新書 2016 164頁)としている。
日本がいつ共和制になったか、日本国憲法が1795年憲法のような民定憲法と考える根拠は何か? 憲法学者であるお二方にたずねてみたいと思うのは、わたしだけだろうか?
吉岡 研一 ホテル勤務 フロント業務
大学卒業後、司法書士事務所、警備員などの勤務を経て現職。