「作品に口は出さない」=「結果責任を取る」~ 大村知事を問う

高山 貴男

「口は出さない」=「結果責任を取る」 

あいちトリエンナーレ2019(以下「あいトレ」)の「表現の不自由展・その後」を巡る騒動で検証委員会は中間報告で「公私混同」など強い調子で芸術監督の津田大介氏を批判している。

公文書で一個人をここまで批判するのは異例である。そしてここまで強く批判しておきながら津田氏を芸術監督にしたことついては「人選自体に問題はなかった」(1)としている。これは奇妙な話である。人選に問題がなかったならばそもそも騒動は起きなかったはずである。人選に問題があったからこそ騒動が起きたと考えるのが普通ではないか。

この「人選自体に問題はなかった」とすることで最も利益を得るのは実行委員会会長の大村秀章愛知県知事である。

補助金問題で記者会見する大村知事(愛知県公式YouTubeより:編集部)

今、大村知事は「表現の自由への公権力の介入」云々を述べて、左派マスコミから喝さいを浴びている。大村知事の振る舞いはまるで「表現の自由」に一家言を持つ政治家だ。

しかし中間報告によると少女像の展示の見直しを迫った事実があり(2)、これはとても表現の自由に一家言を持つ政治家の姿勢ではない。

大村知事はあいトレの展示には「金は出すが口は出すべきでない」(3)の姿勢でいた。論者によってはまさに表現の自由に理解ある寛容な政治家と映るかもしれない。

しかし「金は出すが口は出すべきでない」という言葉には続きがある。それは「結果責任を取る」ということだ。というよりも「結果責任を取る」という前提がなければこの言葉は成立しない。何故なら相手に結果責任を求めるということは「口を出す」のと同じだからだ。

はっきり言って大村知事は津田氏を厳重注意処分した時点で「口を出す」を実践している。津田氏の視点に立てば大村知事の姿勢は相当詐術的に映るはずである。

また「口を出さない」と簡単に言うが、そもそもこれは会長権限の委任を意味するのか、「権限を行使しない」ということは「職務放棄」と何が違うのかなど論点は多岐にわたり大村知事個人で決めてよいはずがない。

この「金は出すが口は出すべきではない」という姿勢は実のところ大村知事が実行委員会会長の権限に無頓着だったことを示している。

自分の権限に無頓着な権力者がどうして「表現の自由への公権力の介入」云々が言えようか。

主催者としての自覚の欠如 

大村知事が主催者固有の権限を意識していたとはとても思えない。

あいトレはあくまでイベントであり、イベントである以上「趣旨」があり、その趣旨に反する作品の展示は拒否出来る。これは「検閲」ではなく当然の主催者権限である。

さて、ここであいトレの趣旨を確認してみよう。

実行委員会規約には次のように規定されている。

(目的)

第3条 実行委員会は、あいちトリエンナーレ(以下「トリエンナーレ」という。)の準備及び開催運営等を行うことにより、次に掲げる事項を達成することを目的とする。

(1)新たな芸術の創造・発信により、世界の文化芸術の発展に貢献すること。
(2)現代芸術等の普及・教育により、文化芸術の日常生活への浸透を図ること。
(3)文化芸術活動の活発化により、地域の魅力の向上を図ること。

規約には「目的」と規定されているが、これを「趣旨」と読み替えても問題はない。

話題となったのは少女像と昭和天皇の個人写真の焼却だが(1)(2)はともかく(3)はどうだろうか。愛知県が主体的に支援するイベントである以上、(3)で規定されている「地域」とは愛知県以外あり得ない。少女像と昭和天皇の個人写真の焼却は愛知県の魅力を向上させるだろうか。

というよりもこの二つを見て「愛知県」という単語が出てくるだろうか。この二つが話題になって2ヶ月あまり経過し様々な主張がなされているが「愛知県」という単語が出てくるのは管見の限り「愛知県知事」とか「あいトレの開催場所」程度である。両者の作品の細かな解説もあったがやはり「愛知県」は出てこない。

この二つから出てくるのは「日本」や「韓国」であり、それも当然のように思える。これは他の作品も同じである。

「表現の不自由展・その後」の作品から「愛知県」という単語が出てこないのならば同展の作品は実行委員会規約3条の(3)を満たさないのであいトレの趣旨に合致しない。

展示された少女像(KBSニュースより:編集部)

前記したように大村知事は津田氏に少女像の展示の見直しを求めたが、結局、彼を説得することが出来なかった。両者の間で具体的にどんな会話がなされたのかはもちろんわからないが、もし津田氏が芸術監督の権限を主張して大村知事の要求を退けようとしたのならば大村知事は「あなたの権限はあいトレの趣旨の範囲内に過ぎない」とか「少女像はあなたの権限を越える」と言えば良かったのである。

そしてそれが言えなかったということは、大村知事は自身の権限を把握していなかったということである。

行政責任者としての自覚の欠如 

主催者だけではない。大村知事は愛知県知事という「行政責任者」という点からも疑問がある。

筆者は今まで言うのを避けていたがはっきり言って「表現の不自由展・その後」自体「行政の信頼」という点で小さくない問題を孕んでいる。

公立美術館で展示を拒否された作品を展示したのが「表現の不自由展・その後」であるが、展示を拒否した公立美術館は別に違法なことをしたわけではない。公立美術館が定める規則に基づいて展示を拒否したに過ぎない。

もちろんこの公立美術館側の措置を批判することは自由である。しかし公立美術館は適正手続に基づき判断した事実を忘れてはならない。

適正手続に基づき展示を拒否された作品が愛知県という行政機関が支援する国際的芸術祭、しかも数十万人が来訪し国際的にも有名なアーティストが参加する芸術祭で展示された場合、展示を拒否した公立美術館の信頼はどうなるだろうか。

例えば有名アーティストがSNS上になんとなく「表現の不自由展・その後」の作品の写真を掲載しただけで、そのファンは展示を拒否した公立美術館を批判する可能性も否定できない。

「表現の不自由展・その後」の再開は展示を拒否した公立美術館の信頼に大変な打撃を与える可能性がある。要するに風評被害を招くおそれがある。そのような展示を何故、行政が支援するのだろうか。風評被害が生じた場合、大村知事は責任を取れるのだろうか。

筆者は大村知事が行政責任者の立場で「参考意見」として公立美術館への風評被害の可能性を指摘することは許されると考える。ところが大村知事は「表現の自由への公権力介入」云々しか言わない。これはどういうことだろうか。

大村知事の責任が問われる

ここまで指摘したように大村知事はあいトレの主催者・行政責任者としての自覚が欠如していたと言わざるを得ない。

今回の騒動では津田大介氏が目立つが、いくら芸術監督が「権力者」と言ってもやはり民間人であり政治家と同等に評価すべきではないし、大村知事の責任者としての自覚の欠如が津田氏の振る舞いを招いたと考えるのが自然である。だから大村知事の責任を論じなければ再発防止には繋がらない。

「表現の不自由展・その後」の再開が決定した今、大村知事の責任を語ることが求められよう。

高山 貴男(たかやま たかお)地方公務員

注釈
(1) あいちトリエンナーレのあり方検証委員会 中間報告 85頁
(2) 同上 54頁を要約
(3) 同上 54頁