「表現の自由について憲法学者2人が語ったこと。」という題名の記事を読んだ。記事元の「ハフポスト日本版」は朝日新聞の共同事業で、執筆は朝日新聞が担当している。
この記事の執筆者の朝日新聞社記者は、憲法学者は、憲法で規定されている「表現の自由」の専門家だ、という位置づけで、「表現の不自由展」をめぐる批判への反批判に、その専門家を利用することを狙ったようだ。この朝日新聞社記者は、題名や冒頭説明を用いて、「国際芸術祭『あいちトリエンナーレ2019』の企画展「表現の不自由展・その後」に関して、憲法学者が不自由展を擁護する声を上げた、という印象を作り出そうしている。しかしそれは、残念な印象操作と言わざるを得ないものだ。
曽我部真裕教授が語っている「表現の自由の根本理念」のフランス革命や1976年ヨーロッパ人権裁判所の判決などを参照した説明は、せいぜい大学の一般教養課程の一般論の話である。その内容は、今回の「表現の不自由展」の具体的な問題の説明にはなっていない。
どうも記事の執筆者である朝日新聞社記者は、曽我部教授の講義を、「表現の不自由展」への批判者への批判として読ませたいようだ。しかし、「表現の不自由展」を批判する人々に、「表現の自由」の講義をしてみたところで、何も変わらない。その人たちは「表現の自由」にもとづいて「表現の不自由展」を批判するのだ。批判者の表現の自由も、当然、憲法21条は保障している。
もちろん批判に威嚇の要素があったりするのであれば、別の次元の問題として扱うべきだ。しかし、「表現の不自由展を批判するのは表現の自由に反する」という話を作り出そうとするのであれば、それはおかしい。「一切の表現の自由は、これを保障する」という憲法21条を理由にして、対立する議論の一方だけを保障の対象とし、それに対する批判を禁止しようと試みるのは、明らかにおかしいのである。
おそらく、曽我部教授は、記事の執筆者が期待することを言っていない。しかし明らかに朝日新聞社記者が印象操作を狙った記事である。
横大道教授の発言は、公権力が芸術の内容に口を出すべきではない、という趣旨が強調されている。題名からすると、横大道教授が、表現の不自由展への批判を批判しているかのように見える。しかし横大道教授の話は、単に一般論であるだけでなく、今回の事件とはあまり関係がないもので、なぜ引用されているのかがわからない。今回の表現の不自由展では、公権力である愛知県は、表現を圧殺している側ではなく、表現の自由を主張する側に立っているからである。むしろ愛知県が表現の自由を主張することが適切であるかどうかが、今回の事件の論点である。
調べてみると、横大道教授は、正しくそのことを朝日新聞デジタルに書いたが、朝日新聞は紙面に載せることを避けた、といった出来事がかつてあったことが指摘されている。
参照:トリエンナーレ表現の不自由展に横大道聡教授『「表現の自由の侵害」は困難』(事実を整える)
憲法学者としての権威に訴えて、表現の不自由展への批判を禁じる、ということになると、むしろ表現の自由を不当に抑圧する行為である恐れが出てくる。憲法学者なる社会的権威を振りかざしてそれを行おうとするのであれば、むしろ憲法21条違反の恐れが出てくるはずだ。
「憲法学では『間に専門家・専門機関を挟んで判断を委ねよう』という考えがある」、という発言には、恐怖を感じる。憲法学者が定義する「専門家」は、憲法学者らで構成されるのではないか、と想像してしまうからだ(参照拙稿:長谷部恭男教授の「憲法学者=知的指導者」論に驚嘆する)。しかし横大道教授は実際にはそうは言っていない。朝日新聞記者の印象操作だろう。
「表現の不自由展」への公金支出の是非を問う議論は、基本的に憲法21条とは関係がない。むしろ憲法89条「公金その他の公の財産は、宗教上の組織もしくは団体の使用、便益若しくは維持 のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。」の観点から、論じていい問題である。
いずれにしても、日本のマスコミは「憲法学者=答えを知っている人」といった図式を振り回した安易な印象操作で記事や番組を作る悪弊をやめるべきだ。
篠田 英朗(しのだ ひであき)東京外国語大学総合国際学研究院教授
1968年生まれ。専門は国際関係論。早稲田大学卒業後、