権力監視能力なきジャーナリスト
あいちトリエンナーレ2019(以下、「あいトレ」という。)が閉幕した。あいトレでは「表現の不自由展・その後」を巡り様々な主張がなされた。
例えば朝日新聞の石川智也記者は「言うまでもなく、今回のトリエンナーレ実行委は被害者だ」とし、あいトレ実行委員会を擁護する。(参照:「文化守らぬ文化庁」今も昔も – 石川智也|論座 – 朝日新聞社の言論サイト)
これは驚きである。あいトレ実行委員会は愛知県庁や名古屋市役所といった行政機関の支援によって成立している組織である。ジャーナリズムが好む言葉を使えば「権力」によって成立している組織である。だから実行委員会事務局には愛知県庁職員も多数出向しており行政の別動隊と言っても過言ではない。あいトレ実行委員会は「権力」と言っても良い。
更に言えば愛知県庁と名古屋市役所は三大都市圏にある巨大行政機関だから、あいトレ実行委員会を「巨大権力」と形容しても決して誇張ではない。そんな巨大権力を石川氏は「被害者」と言っているのである。
巨大権力を「被害者」扱いするジャーナリストに「権力を監視する」ことなど出来るわけがない。石川氏は「権力監視能力なきジャーナリスト」である。そんな石川氏だが
今回の「文化資源活用推進事業」の審査項目に、安全対策などない。
と言う。
しかし主催者が安全対策を担うのは「当然の前提」であり、ましてや今回のあいトレの騒動では主催者自身が危機を招き入れたようなものである。主催者、特に「芸術監督」たる津田大介氏の行動は極めて問題があり、彼の行動はイベント開催の「当然の前提」を無視しており例えるならば「芸術祭を企画しておきながら芸術作品を集めなかった」くらい問題があった。
しかし石川氏には権力を監視する能力がないからこういう考えにはならないのである。
そしてこの程度だから「表現の不自由展・その後」への公金支援の是非についても「金は出すが口は出さない」原則、いわゆる「アームズ・レングス」を持ち出して簡単に肯定する。
しかしこれは「原則」の話であってこれだけでは「表現の不自由展・その後」への公金支援は肯定出来ない。忘れてはならないのがあいトレは地方自治体が主体的に支援するイベントであり、その受益者は愛知県民であるということである。
「表現の不自由展・その後」の作品は愛知県民の利益になるとはとても思えない。主催者権限で展示を拒否しても全く問題ない作品である。
あいトレ実行委員会は明らかに開催趣旨や規約を無視して作品選定を行った。あいトレ実行委員会が開催趣旨や規約に沿って作品を選出・展示しているかを監視することはまさにジャーナリズムの「権力を監視する能力」が問われるところだが「権力監視能力なきジャーナリスト」である石川氏にはそれは難しかったようだ。
とにかくいい加減
今回の騒動はジャーナリストだけではない。大学人にも問題があった。
大学人は「表現の自由」を強調し作品・作家の「被害者」としての性格を示すだけだった。もちろん彼(女)らの口から「愛知県民」は出てこない。
大学人の中で特に問題なのは憲法学者である。「表現の自由」が「民主的社会の本質的基礎」とか「全ての人間の発達のため基本的条件」程度のことは誰でも言える。法律家に期待されている発言ではない。
参照:ハフポスト『「表現の自由」について憲法学者2人が語ったこと。どのような表現まで許される? 』
「表現の自由」を記した憲法21条は大事だが「公共の福祉」に反するものは認められないし今回の騒動は憲法21条だけではなく「公金その他の公の財産」について記した憲法89条の観点も含め総合的に検証されなくてはならない。
法律家に期待されていることは、憲法の特定の条文の重要性を強調することではなく各条文を整合的に解釈することである。
今回のあいトレで憲法学者が法律家の役割を果たしていたとはとても思えない。
こうしたジャーナリスト、大学人に感化されたのか現代アートの作家の発言・行動も理解に苦しむものが多い。
作家はあいトレが国からの補助金が不交付になったことに反発しているがどうだろうか。作家が公的支援を受けることを恥じることはないが誇ることとも思えない。
全ての政策において「公的支援」はあくまで「国民(住民)」の利益に資するという前提がある。「国民(住民)」の利益にならない公的支援などない。「作家」「アーティスト」「芸術家」の肩書だけでは「公的支援」の対象にはならない。彼(女)らの位置づけはあくまで「専門家」である。
一部作家に見られる公的支援を当然視する姿勢は「特権」の要求に他ならず反民主的・反憲法的姿勢である。
公的支援への姿勢だけではない。鑑賞者への姿勢にも問題がある。
作家は「表現者の不自由展・その後」への批判には「作品をよく理解していない」と言った具合で鑑賞者を軽んじる姿勢が強い。しかしこうした姿勢は作家に不利益しかもたらさないだろう。
鑑賞者を軽んじればそのうち「表現力のない表現者」「アートで勝負出来ないアーティスト」「作品説明が本番」「補助金申請書が作品」といった嘲笑を招くだけだろう。それは公的支援が受けられないことよりも辛いはずである。作家の方々はとにかく自制していただきたい。
「痛み」「不快」に鈍感なリベラルは不要である
今回のあいトレ騒動では無責任な評価が相次いだ。その最たるものが「昭和天皇の肖像写真の焼却」への反発に対する評価である。
対象は誰であれ肖像写真の焼却に「痛み」「不快」の感情を抱くことは別におかしいことではない。他人に「痛み」「不快」の感情を抱かせる表現も「表現の自由」かもしれないが、それが公的支援の対象になるかは別問題である。
これについて検証委員会は中間報告で次のように述べる。
単に多くの人々にとって不快だということは、展示を否定する理由にはならない。芸術作品も含め、表現は、人々が目を背けたいと思うことにも切り込むことがあるのであり、それこそ表現の自由が重要な理由。
筆者は現役の地方公務員であり職務能力も平均的なものに過ぎないが、そんな筆者でも自らの職務に照らし合わせて「不快」を論ずるならば「住民から不快の感情を取り除くことが行政の仕事」と言える。
作家から「この作品は不快かもしれないが展示してください」と申請されれば腰を低くしながら「不快ではない作品をお願いしたいのですが…」と言うだけである。あいトレのように「不快」な感情を住民に押し付けることが行政の仕事であるわけがない。それは行政の自己否定である。
検証委員会が主張しているのは「表現の自由」ではなく「表現者の自由」いや「表現者の特権」である。
そしてこの検証委員会が主張した「表現者の特権」を「個人的に最重要」と位置づけ肯定的に評価したのが前段で触れた朝日新聞の石川記者である。筆者と評価が真逆なのである。
筆者は「痛み」「不快」の感情は立場を超えて共有されるものであり「対話」の接点になると考えている。
しかし今回のあいトレ騒動を見てもリベラルを自認する方々にこのような考えはなく「痛み」「不快」の感情に実に鈍感で最悪「表現の自由」の名の下にそれを他人に押し付けることを容認する始末である。
「痛み」「不快」に鈍感なリベラルは不要としか言いようがない。
「自由」の名の下で「痛み」「不快」が強制されるなどあり得ない話である。
「日本のリベラルは底が抜けた」暗澹たる思いである。
高山 貴男(たかやま たかお)地方公務員