島津侵攻以前にも沖縄が中国だったわけではない

八幡 和郎

明治政府による琉球処分以前には、沖縄は中国の一部だったと信じている人は、さすがに日本人では超少数派だろうが、1609年の島津侵攻以前は中国だったと誤解している人はけっこう多そうなので、いまさらだが、解説しておこう。

写真AC :編集部

沖縄の人々は日本語(ないし同系統の言語)を話し、仮名を使ってきたし、縄文系の血が濃く、日本人のなかで中国人とはもっとも縁遠い人々だと言うことだ。源為朝の子である舜天王をもって初代の王とするという始祖伝説を正史でも採用している。

ただ、稲作が発展したのは、11世紀(平安時代)以降である。律令制のもとでは、東北地方北部でも11世紀になって初めて郡がおかれたわけで、日本の領土という意識はあっても行政組織を置く意味がなく、必要に応じて人を派遣したりしていたらしい。

また、豊臣秀吉の大陸侵攻に際して兵を出すことを要求され、かわりに軍資金を出すことは約束して島津に資金を立て替えてもらったが、のちに踏み倒したので侵攻された。

12〜13世紀のグスク時代に築城された勝連グスク(Wikipedia:編集部)

沖縄学の祖というべき伊波普猷は「琉球の言語と民俗は古代日本文化からの分かれであり、琉球人の直接の先祖は九州から渡来して沖縄島に上陸し、グスクを築いて定住した」としたが、農耕が伝わる前の沖縄の人口はわずかで、そこに南九州や奄美から農耕民が渡ってきて、これが沖縄県民の祖先の主流らしい。

そして、弥生時代から平安時代前を飛ばすようなイメージで、古代と中世の混合ともいうべき「グスク(城)時代」に入った。

舜天王(Wikipedia:編集部)

琉球王国の正史で江戸時代に編纂された「中山世鑑」は、ヤマトにおける「日本書紀」のようなものだが、源頼朝の叔父で保元の乱で敗れて伊豆大島に流された源為朝が、本島北部の運天港に漂着し、大里按司という沖縄の有力者の娘と結婚して生まれた子が、琉球王家の始祖である舜天王(在位:1187〜1237年)になったとしている。

島津氏の支配下に入った琉球王国が、源頼朝の子孫だと称する島津氏と、主従でなく分家のような関係だと強調して地位向上を図ったという面もあるが、島津侵攻前からそのような伝承はあり、島津侵攻後の創作ではない。

為朝かどうかは別として、南九州あたりから、農業についての知識を持ったり、武芸に優れた個人や集団がやってきて支配者となったことが多かったという歴史的な事実を示唆している。

英祖王(Wikipedia:編集部)

しかし、舜天王統は三世代で終わり(1187〜1259年)、英祖王統の時代となる(1260〜1359年)。このころ、仏教がヤマトの禅鑑という僧によって伝わり、仮名も使い始められた。

そして、察度王(在位:1350〜1395年)という人物が現れ、これが、中山王国を建国し、1368年に中国で成立した明帝国の勧めに応じて朝貢し冊封されることになる(1372年)。

本土では南北朝や戦国の争乱の時代であり、手薄だったといえよう。このころ、南部や北部でも有力な王国が現れ、糸満市の大里にあった南山王国は1380年、今帰仁の北山王国は1383年にそれぞれ明から冊封された。

尚円王(Wikipedia:編集部)

そして、尚巴志が1429年には南山王国を滅ぼして統一王国を実現した。これを第一尚氏の王統と言う。しかし、七代目の尚徳王を最後に金丸(尚円王)の第二尚氏王統にとってかわられた(1462年)。

明帝国はその初期に積極的な海洋政策をとって、中山、南山、北山の三国鼎立時代の沖縄にも入貢を進める使いがやってきた。船もすべて用意してくれるという結構な話だったのでこれに乗り、明帝国からの冊封と琉球王国からの朝貢という関係が始まった。

明は琉球には外交や行政の専門家がいないだろうと福建省人を350家族下賜した。彼らは数にすると少数派だが、東南アジアの華僑と同じで現地貴族と争いつつ強い力をもった。

彼らの子弟が北京に留学して官僚を独占していたが、のちには、不満が高まって土着の上流階級にも門戸が開かれた。いずれにせよ、明は官僚機構を福建人や留学組を通じてコントロールしていた。

中国への朝貢使節は、だいたい、2年にいちど派遣されたが、ほかの名目の交流もあり、ほとんど毎年、なんらかの使節派遣があった。

一方、中国から来る正式の使節は国王の交代の時に来る冊封使だけである。国王が死ぬと使節が派遣され、首里城の正殿の前の庭で、「汝○○を琉球国中山王に封ず」という詔書を受け取った。この行事をなんと首里城の祭りで再現してかねてより問題になっていた。

このころが、「万国津梁(世界の架け橋)」の時代といわれる琉球王国の全盛期だが、倭寇の跋扈で朝貢貿易の枠外の自由貿易が盛んとなり、また、倭寇をビジネスパートナーとする南蛮船が到来してより本格的な中継貿易を始めるに至って下火になった。

ヤマトと琉球王国との関係は、室町幕府とも島津氏とも書状や使節のやりとりはあったがインフォーマルなものだった。幕府では使節は朝貢使節として扱い、書状は仮名で書かれており、中国系の官僚たちは外交文書として扱わず、琉球側できちんと保存されることもなかった。

室町時代から戦国時代における中国の影響と日本の影響はまったく違う形で及ぼされたので、比較しようがないのである。

しかし、民衆レベルでの交流は圧倒的に日本、とくに南九州との方が分厚いもので、人の行き来も中国などとは比較にならないほど頻繁で、言葉もなんとか通じるわけですから、外交関係という意識は双方になかった。

足利義教(Wikipedia:編集部)

しかし、薩摩の島津氏は徐々に日本と沖縄との交易権の独占を図った。ただし、将軍義教から琉球を領地とすることを認められたというのは(1441年)、少し怪しいと言われている。

しかし、応仁の乱が起きたあとの1471年になると、幕府は島津氏の許可なく琉球と交易することを禁じたが、勘合貿易や朝鮮貿易を独占する大内氏を牽制する意味もあったようだ。幕府としても琉球は島津の勢力圏といった認識はあった。

琉球と中国の貿易といっても、琉球は仲介するだけで、日本の日本刀、漆、扇、漆器、屏風、銅などを中国に渡し、中国産の生糸、絹織物、薬などを日本側に輸出したりしていた。

琉球王国の勢力圏は、はじめ、先島には及んでいなかったが、1500年に八重山でアカハチの乱が勃発し、その鎮圧を契機として、宮古や八重山にも間接支配ではあるが、支配関係ができあがった。

奄美大島には、奈良時代にはヤマトの影響が及んでいたが、遣唐使の派遣などもなくなると関心もあまりなくなり、1447年に奄美大島は琉球の支配下になった。

島津氏については、鎌倉時代から薩摩の守護だったが、一族の群雄割拠が続いた。それが、戦国時代の後期になって統一権力の確立が進み、その余勢を駆って沖縄への統制を強めていった。

豊臣秀吉によって天下は統一され、周辺諸国と同じような中央集権国家の形が整えられていき、南蛮船もやってきていたので、貿易を各大名が勝手にやったり、倭寇のような非合法勢力にまかせておくわけにもいかなくなった。

また、どこまでが領土か、沖縄や蝦夷のような十分に支配が及んでいないところと日本政府との関係はどういうものかとかいったことを、のちの黒船が来た時代ほどではないが、明確化する必要も出てきた。

そうしたときに、沖縄は日本人が暮らす土地であるのだから、統一権力に従うべきであって、中国の影響が間接的にせよ及んでいるのはダメだという考え方を豊臣政権がとるのは自然なことだった。長崎がバテレンの土地では困るのと同じである。また、島津氏もこれまで場当たり的であった琉球王国との関係を秩序立てたものにしたいと考えるのも当然だった。

そして、豊臣秀吉は大陸遠征にあたり、当然のことのように琉球にも軍役を課そうとしました。琉球王国はこれを明に密告する一方で、軍役としての資金供与を拒否はせずに半分だけ送り、半分は島津氏に肩代わりさせてしのぎ、それを踏み倒した。

ともかく、負担をいったん了承してしまえば、もはや、自分たちは明の冊封国だからとか、独立国だからと断る理屈はなくなった。

また、德川幕府が漂着した琉球船の乗組員を救出送還したのに聘礼の書状を出さなかった。聘礼の書状を出すと明の機嫌を損ねると中国系官僚が思ったのである。

中国系と留学組の官僚に外交を握られているから現実的な国益も考えなければとか、自分たちが日本人と同じ民族だとかいうことに思いが及ばなかったのである。

このとき政権を率いたのは謝名親方という中国系の人物で、南京の国子監という官僚養成校に7年間も留学していた根っからの中国絶対崇拝主義者だった。

正史である「球陽」には、「権臣謝名の言を信じ、遂に聘問の礼を失す」とあり、別記録は「(謝名親方が)子供の時から明の南京へ学問に渡り、年久しくして帰国したので、ヤマトの風を知らなかった」「こうなったのも謝名親方ひとりの失敗だし、佞臣だった」とある。

これに怒った幕府は、1609年に島津氏による琉球征伐を許可した。その続きは改めて書く。


八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授