鳥居民、岡崎久彦、渡部昇一とここ数年、産経新聞の「正論」メンバーが次々に亡くなる中、14日には木村汎氏が逝去された。このロシア研究の泰斗の著作は手元に5冊。座右にする小室直樹や鳥居と比べ少ないが、その訳は氏の何十編もの珠玉の論考がネットの産経ニュースで読めるからだ。
その5冊の内3冊は、偶さかこの10日に図書館で借りてきた畢生の大著「プーチン三部作」(藤原書店)、すなわち「外交的考察」、「内政的考察」そして「人間的考察」だ。残りの2冊は「日露国境交渉史」(中公新書)と木村より2歳年長の佐瀬昌盛との共著「ゴルバチョフ革命」(サイマル出版会)。
産経に載った木村の訃報には、彼の師匠が晩年に防衛大の校長だった猪木正道と書いてあった。佐瀬もロシア研究者で正論メンバーの防衛大教授、30年ほど前にこの二人がゴルバチョフを共著したのも猪木の取り持ちだろうか、などとしばし思いを巡らせた。
藤原書店の出版物らしく「プーチン三部作」はどれも厚みが4.5cmある。同書店の鶴見祐輔著「正伝 後藤新平(3)台湾時代」も5cmだ。木村は「人間的考察」のあとがきに「鶴見祐輔氏の区別を借用するならば、私はプーチン期の“歴史”でなく、プーチンの“伝記”を書くことを志した」と書いている。
北方領土返還は木村のライフワーク研究の一つ。それが1mmも進まず今年も暮れようとしている。そこでこの問題をもう一度じっくり勉強しようと偶さか思い立って借りてきた矢先の訃報、これも虫の知らせか。予約多数につき貸出延長不可になった。3冊〆て17,500円は痛いが香典代わりに買うか。
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さて、その北方領土を「北方四島」と呼ぶよう政府が呼び掛けたと16日の共同通信に出ていた。日ロ共済事業として先ごろ試行された国後・択捉ツアーの参加者に、現地での交流に際し「北方領土」と口にしないよう、政府が旅行会社を通じて求めたのだそうだ。
外務省幹部は「四島はロシアに実効支配されており、ちょっとした言動がトラブルにつながりかねない。やむを得ない対応だ」とした。が、19年2月7日の北方領土返還を求める全国大会に寄せて「首相は正気か、北方四島“固有の領土”となぜ言えないのか」との論考を書いた木村はさぞご立腹に違いない。
この論考で木村は、同大会を主催する官民団体の採択アピールから「北方四島が不法に占拠されている」と述べた文章が削除された上に、安倍首相のスピーチにも「日本固有の領土」という言葉がなかったことに、「首相は正気か」と噛み付いたのだ。
木村は、安倍政権によるこの対応は、進行中の日露平和条約交渉を考慮したものと推測されるが、とんでもない思い違いで、むしろロシア側に誤解を招く誤ったメッセージを送るばかりか、日本側にとっても致命的な外交行為にさえなりかねない、と書く。
その理由は、プーチン政権は国境線の決定問題に「戦争結果不動論」、すなわち、国境線は国際法でなく武力闘争の結果で決まり、日ロ国境も先の大戦でソ連が日本に勝ち北方四島を軍事占拠したことによって決定したとの立場をとるが、これは事実を歪曲した完全な誤りだからだという。
木村は続ける。戦争が国境線を決めると認めるなら、永久に戦争は終わらず国際社会は闇となる。国境線は戦闘行為でなく国際法で決めるべき。戦争の「負の連鎖」に終止符を打とうと連合国は領土不拡大の原則に同意した。「大西洋憲章」「カイロ宣言」「ポツダム宣言」「国連憲章」がそれだ、と。
スターリンもこれらに署名した。米国はこれを守り沖縄を日本へ戻した。これらの協定を唯一守らなかった国がソ連。ソ連は日本がポツダム宣言を受諾した後も攻撃を止めなかった。しかも日ソ間には「日ソ中立条約」があったので明らかに同条約の違反行為だった、とも。
筆者は、確かにいう通りだけれど「大西洋憲章」破りは何もソ連に限ったことでないとも思う。これも厚みが4cmある「裏切られた自由 下」(通称、フーバー回顧録)はそれを詳述する。41年8月にルーズベルトとチャーチルが発表したこの戦後の世界構想には「領土不拡大」が謳われた。
しかし44年3月にチャーチルは議会で質問されてこう述べた。
(大西洋憲章のことは)の常に念頭にあるがいろいろ考慮しれなくてはならない条件もある。特に(大英)帝国の利益については考えなくてはならない。
憲章の束縛を何とかしたいと考えていたハル米国務長官も、44年12月の記者会見での記者とのやり取りで発言を二転三転させ、結局は認めた。(ハルの発言部分のみを要約)
大統領は(憲章の)調印は誰もしていないとしている。…紙片に書き付けたようなものだ。…大統領は公式文書でないと重ねていった。…署名した文書が見つかるかもしれない。…実質的には調印されたようなものだ、と大統領は答えた。
だからといってスターリンが「領土不拡大」を蔑ろにして良いという訳ではない。が、彼だけを責めるのは間違いで、米英を含めた連合国が大同小異だということ。米国務省ヴィンセント極東部長は45年10月の講演で「インドシナにおけるフランスの主権を引き続き認める」とさえ述べた。
さて木村はこう続ける。他国領土の軍事的占領はその領域の主権取得を意味しない。諸国はこのことを承知している。ところが旧ソ連=現ロシアだけが北方領土の軍事占領=同地域の主権の入手とみなす。これが法律上通用しないのは、占有権と所有権が異なる概念であることからも自明の理だ、と。
こう例も引く。ある者が火事場のどさくさで他人の財産をポケットに入れても、占有権こそ発生するかもしれないが合法的な所有権は発生しない。そのような不法を犯した者は同財産を速やか持ち主の手に戻す義務があり、引き渡しを受けた瞬間に元の持ち主が所有権を手にする。泥棒は、所有権は依然として己の手に残るとの屁理屈を主張し得ない。
そして結語に木村の真骨頂が出る。
安倍政権はロシアを刺激して平和交渉を停滞させることを危惧しているのだろう。ロシア式思考や行動様式に無知と評さざるを得ない。ロシア人は席を憤然と蹴って交渉会場を後にする毅然とした相手との間に初めて真剣な話し合いを行う。「己とプーチン氏の間で必ずや平和条約を結ぶ」と交渉の期限を設け、実際次から次へと一方的な譲歩を行う。そのような人物とは決して真剣に交渉しようとは思わないのがロシア外交の本質である。
木村が「正気か」と叱った安倍総理の在任期間がこの20日、桂太郎を抜いて憲政史上最長になる。が、その2887日を思い返してみるに、憲法改正も拉致被害者奪還も北方領土返還も実現していない。ならば木村の主張を遺言として、45年8月以来のソ連の不法を並べ立てて返還交渉に臨んではどうか。
大西洋憲章破り、テヘラン・ヤルタでの対日参戦密約、日ソ中立条約破り、降伏後の北方領土侵攻、60万人の邦人拉致などソ連の不法は枚挙に暇ない。とりわけ60万人の拉致は国際法違反どころか人権を蹂躙する行為だ。これは歴史の事実だから文政権の所業とは同日の談でない。ぜひとも一考を願う。
高橋 克己 在野の近現代史研究家
メーカー在職中は海外展開やM&Aなどを担当。台湾勤務中に日本統治時代の遺骨を納めた慰霊塔や日本人学校の移転問題に関わったのを機にライフワークとして東アジア近現代史を研究している。