闘争的なフェミニズム運動
SNS上ではフェミニズム運動への評価は厳しい。あまりにも闘争的だからだ。最近でも赤十字の献血ポスターを巡ってフェミニストは騒いだ。胸こそ強調されているが特に肌の露出があるわけでもない女性キャラクターを問題視している。
参照:現代ビジネス「「宇崎ちゃん」献血ポスターはなぜ問題か…「女性差別」から考える」
フェミニズム運動は極めて闘争的だから「闘士」と呼べる論客がいる。
最近、注目されている論客は#KuTooで話題になった石川優美氏である。彼女はBBCが選ぶ「100人の女性」にも選出された。
参照:ハフポスト「石川優実さん「100人の女性」に選出。#KuToo を呼びかけて2万人分の署名を集めたことをBBCが評価」
もちろん彼女は上記の赤十字ポスターの件についてSNS上で積極的に批判している。
そしてその石川氏に積極的に反論しているのがSNS上にいる匿名のネット論客達である。
ネット論客は星の数ほどいるが、石川氏は彼(女)らを相手に日々、発信を続けている。
そんな石川氏だがこの分野で特に有名なネット論客、青識亜論氏(ツイッター)と先週、公開討論を行った。
参照:【石川VS青識】これからの「フェミニズム」を考える白熱討論会(11/16)
実は、この公開討論に筆者も一般客として参加した。
フェミニズム運動の「闘士」石川優美氏は何を語ったのだろうか。
「規制」ではなく「配慮」を求めている?
青識氏は服飾史とフェミニズム運動史は密接に関係があるとし「ブルマ」と「シャネル」を例に現在のフェミニズム運動に問いかけた。
1990年代まで学校では体育の授業時に女子生徒はブルマの装着が義務付けられていたが、その肌の露出の広さから当の女子生徒から反発を受けて結局、廃止された。
ブルマはよく知られているようにフェミニズムの精神から開発されたものだが、子どもとはいえ当の女性から支持されなかったのである。
対して服飾・化粧品メーカー「シャネル」の創設者ココ・シャネルはフェミニズムを強く意識していたわけではなかったが、女性視点でのファッション開発に取り組み自由度の高い服装を女性に提供し、それが“結果的に”フェミニズムに貢献した。
青識氏は今後のフェミニズム運動について「石川さんはブルマで行くのか? シャネルで行くのか?」と石川氏に問いかけ、それに対して彼女は「どちらもやった方が良い」という回答だった。回答はニュアンスとしては消極的な印象が強かった。
続けてフェミニズム運動が公共空間の掲示物に対して撤去を含む規制を求める抗議活動を行うことが話題になった。冒頭で触れた献血ポスターの例もこれに含まれる。
青識氏は公共空間から掲示物を規制する根拠が曖昧なこと、そもそも掲示物を規制しても男女差別の根本的解決に至らずフェミニズムに貢献しないと指摘した。この指摘に対して石川氏は「私達は規制を求めているのではなく配慮を求めている」と反論した。
話が進むとは石川氏は「そもそも差別とは何なのか?」という根源的問いかけも行った。
他にも色々議論されたが現在の闘争的なフェミニズム運動を理解するうえでこの二つを挙げれば十分だろう。
「共感」を忘れたフェミニズム運動
公開討論で確認されたのがフェミニズムを広めるにあたって必要なのは「強制」ではなく「共感」である。「強制」はあくまで最終手段、「強制」でしか事態が打開出来ない場合に限られ、実際に「強制」を行使するとしても適正手続きは必須である。本来、不要と考えて良い。
現在のフェミニズム運動が批判に晒されているのは「共感」を忘れてしまっているからである。
青識氏が紹介したブルマとシャネルの事例は「共感」の重要性を実にわかりやすく示してくれるし、公共空間の掲示物を規制するとしてもその根拠に明示された具体的なルール(法律、条例等)が求められているのもおよそ人間は「強制」に拒絶反応を示すからである。
石川氏は「規制ではなく配慮を求めている」と簡単に述べたが、例えば男女雇用機会均等法に「配慮規定」があるように他人に配慮を求める場合も明示された具体的なルールは求められる。ルールなくして他人に配慮は求められない「他人の行動を制約する」というのはそれほど重大なことである。
石川氏は「他人の行動を制約する」ことの重大性に鈍感だから「そもそも差別とは何なのか?」と問いかけてしまうのである。フェミニズム運動とは女性差別を是正する運動である。にもかかわらず「差別」に明確な考えがないということはかなり問題があると思うがどうだろうか。
「潔癖症」では自由社会は成立しない
公開討論ではフェミニズム運動から「表現の自由」一般にも話が及んだ。印象に残ったのが「他人の信仰を侮辱することは表現の自由で守られるべきか」という問いかけに青識氏は「侮辱を容認しなければお互いに話会うことも出来ない」と主張したことである。
侮辱、しかも他人の信仰を侮辱することは極めて重大なことである。しかし一方で侮辱は主張の「接点」という性格も持つ。侮辱を完全に否定してしまったら「対話」すら成立しなくなる。「潔癖症」では自由社会は成立しないくらいは言えるかもしれない。
自由社会における紛争処理システムは時代に応じて更新されていくべきだが、その更新が自由社会自体を抑圧してしまったら本末転倒である。そういう事態に陥らない範囲内で紛争処理システムを更新していくためにはいかなる相手であれ「存在を否定しない」という意識を強く持つことだろう。
テロリストであれレイシストであれ否定されるのはその「行動」であって「存在」ではない。こういう言説は本来、リベラルから発せられなければならない。
いずれにしろ公開討論では現在のフェミニズム運動の課題、そして表現の自由について考えさせられるものが多かった。この討論会が今後のフェミニズム運動にどれほど影響を与えるかはわからないが、それがたとえ小さなものとしてはプラスであることは間違いない。
高山 貴男(たかやま たかお)地方公務員