この度の台風の猛威により、福島県も甚大な被害を受けました。大変胸が痛むのは、原発事故により避難し、新天地で再起をかけた方が再び台風の被害にあっていることです。被災された方の心が折れないよう支えていくことが、我々行政マンにも求められます。
学校にも被害があり、県内だけでも100校以上が休校となりました。2週間ほどで多くの学校を再開することができましたが、郡山市内で浸水した小学校3校の被害は大きく、台風から2ヶ月近くになる11月末現在でも近隣校を間借りしての授業となっています。関係者の懸命の努力により、来月から順次、本来の校舎で教育活動を再開される予定です。
文部科学省によると、この度の台風被害により他校を間借りしている学校は全国で10校ほどあるとのことであり、早期の復旧により本来の学校での日々が戻ることを祈っています。
一方、震災・原発事故から9年を迎えようとしている福島県では、避難指示が継続している地域があり、未だに4つの町の小中学校は避難先での教育活動を行っています。
例えば福島第一原発の立地町である大熊町の小中学校は、町から100km以上も離れた会津若松市内にあります(町は2022年に地元での学校再開を目指しています)。
除染や放射線量の低減などを踏まえ避難指示は徐々に解除され、福島県全土に占める避難指示区域の割合は、震災直後の約12%から、2019年4月には約2.5%となっています。避難指示の解除に伴い、2018年には5つの町村において地元で学校を再開させることができました。
これまで何年にもわたって仮設校舎や他校の間借りなどの環境で授業を受けてきた(いる)子供たちがいるのです。全国の皆様に、まずはこの事実を知っていただきたいと思います。
私自身、プレハブの校舎に伺うたびに胸が痛みました。雨の日は雨音がうるさく感じられ、廊下を歩けば軋むこともあります。
このような状態を避難指示の解除にあわせて早期に解消しようと、県教育委員会にでは「学校再開支援チーム」を立ち上げ、地元にある校舎の環境整備の支援などに取り組んできました。全村避難となっていた飯舘村でも2017年3月に避難指示が解除され、村の学校に帰還する準備が急ピッチで進められました。
校舎のリニューアルなどのすべての準備を整え、「ようやく本来の教育環境に戻れる!」と関係者間で胸をなでおろす中で、2018年3月にはプレハブ校舎の閉校式が行われました。そこに出席していた小学6年生の女の子から、次の発言があったのです。
「6年間通った自分たちにとって、ここは『仮設』なんかじゃない」
この言葉を聞いてガツンと頭を殴られたかのように感じました。避難している仮の状態から、本来の学校に戻すという発想は、大人の行政的な発想だったなあと思い知りました。この女の子は小学校生活の全てである6年間、まさに解体されようとしているプレハブ校舎に通ったのです。
そこで過ごした時間は「仮」の時間なんかではなく、先生や友人と切磋琢磨した「本物」の時間だったのです。人生には仮の時間はないし、あってはならない。
飯舘村の子どもたちは再開後の学校に通う子がほとんどでしたが、他の市町村では地元での学校再開のタイミングで違う学校へ転校する子、あるいは避難先の仮設校舎が当面継続する場合は引き続き仮設に通う子もいます。原発事故は避難指示や賠償金、家族の別離など様々な面で「分断」を生みました。
学校の地元再開など復興が進展することは喜ばしいことではありますが、町に戻る or 戻らない、新しい学校に通う or 通わないという選択を被災者に迫ることにより、「新たな分断」を生みうることも忘れてはなりません。
再開後の学校の課題は多いですが、共通する最大の課題は生徒数の激減といえます。原発事故後に避難した12市町村の小中学校においては、児童生徒数は震災前の約1割になっています(9割減ということです)。課題をチャンスに変えるべく、この地域では全国の過疎地域のヒントになるようなITを使った遠隔の合同授業や、極少人数学級での指導法の研究などのチャレンジが進められています。
「ここは仮設なんかじゃない」と言ってのけた女の子は、私にとって福島での原体験のような思いがしています。復興と教育は私のライフワークです。原子力災害からの復興の途上にあって、今度は台風からの復興も加わりましたが、何度でも立ち上がろうとする不屈の福島県の今を伝えていきたいと思います。
高橋 洋平(たかはし ようへい)福島県企画調整部企画調整課長
2005年文部科学省に入省。カリフォルニア大学バークレー校客員研究員、私学助成課課長補佐などを経て、2016年より福島県に出向し、教育総務課長として教育の復興などを担当。2019年から現職で、県政全般の内外調整を担う。