中曽根元首相死去:業績は「外交は満点・内政は零点」

八幡 和郎

首相在任中の中曽根康弘さん(官邸サイトより)

中曽根元首相死去。「外交満点、内政零点」というのが私の評価である。外交については、フランス語、英語の両方ができてサミットでも主導権を取れた。

ただし、韓国に歴史認識問題で譲歩しすぎたのは汚点。中曽根氏は初の内務官僚出身の首相だったが、経済が分からなかったのが致命傷だった。鈴木内閣の閣僚の時からだが、大平内閣の消費税引き上げ、グリーンカード導入をつぶして、行政改革とかいう小手先でごまかし、バブルを起こして経済を滅茶苦茶にした。

あのときから政治家は魔法のマクロ経済政策を追い求めてまじめに経済の強化策を講じることがなくなって現在に至っている。これを機に魔法の経済政策を求めることから卒業して欲しい。

旧制静岡高校でフランス語を第一外国語として学び、母校である高崎高校での講演会で「世界一の国民はフランス人で、二番目は日本人」といい、ドゴール大統領をもっとも尊敬していた。フランス革命記念日に参加しミッテラン大統領とともに閲兵し、「三色旗捧げ雷雨にたじろがず」と俳句を詠んだ。

以下、拙著「歴代総理の通信簿」(PHP文庫)に加筆した。(敬称略)

第45代 中曽根康弘 (なかそね・やすひろ) 評価C

外交は満点、経済は零点

大正7(1918)年5月27日生~ 群馬県高崎市生まれ。東京帝国大学法学部卒。

在職期間:第一次 昭和57(1982)年11月27日(64歳)~58(1983)年12月27日(396日)

第二次 昭和58(1983)年12月27日(65歳)~61(1986)年7月22日(939日)

第三次 昭和61(1986)年7月22日(68歳)~62(1987)年11月6日(473日)

*自主独立を希求する民族主義者だが、米国との協調を注意深く保ち、サミットの主役として活躍した。だが、バブル経済は日本の繁栄と文化を致命的に破壊してしまった。

青年将校から風見鶏へ

高崎中学で福田赳夫と中曽根康弘は先輩・後輩であったが、福田が神童と呼ばれる優等生だったのに対し、中曽根はそれほどでもなく、福田が旧制一高に進んだのに対して、中曽根は旧制静岡高校(現・静岡大学)に進んだ。そこから東京帝大法学部を経て、内務省入りした。生家は高崎の裕福な材木商である。

戦争中は、俊英を集めた海軍主計士官となって恵まれた軍隊生活を送った。海軍では優秀な若い官僚などを優遇して、しかも、比較的安全な立場である主計士官として囲った。これが、戦後に海軍善玉説が流布される推進力にもなったともいわれる。

復員後、いったん内務省に復帰したもののすぐに退官し、昭和22年(1947年)の総選挙で当選した。自主憲法制定、首相公選制を早くから唱え、青年将校的な政治家として異彩を放った。第二次岸内閣で早くも科学技術庁長官となり、河野派分裂のときに一部を継承して中曽根派を立ち上げた。知名度その他からいって、総理を狙えるのは中曽根ではないかとみられたからである。

その後、佐藤内閣で運輸相、防衛庁長官、総務会長を経て、角福戦争では同郷の福田ではなく田中支持にまわり、地元では裏切り者といわれ、世間は「風見鶏」と揶揄したが、この決断が総理への道を開いた。

田中内閣では通産相、三木内閣では幹事長、福田内閣では総務会長、鈴木内閣では行政管理庁長官として行政改革に取り組み、総理候補として力量を示した。

「日本のドゴール将軍」への野心を隠す

ド・ゴール(Wikipedia)

フランスのドゴール将軍こそが中曽根の理想であったことはよく知られている。米ソの世界支配に抗して独自性を守り、自国の文化を誇る姿を、「憲法まで押しつけられた」日本人としての屈辱感と比較しつつ憧れたのである。

だが、中曽根が偉かったのは、闇雲にまっすぐ目標へ進むのでなく、現実世界のなかでしたたかに対処することの大事さを知っていたことである。ドゴールも、表向きはともかく、米国やソ連にとって自分やフランスが必要であるようにあらゆる手を打ってきたものだ。

だからこそ、中曽根はレーガン大統領に媚びてロン・ヤス関係を築き、「日本は米国の不沈空母だ」とリップサービスした。あるいは、旧制高校での第一外国語がフランス語であることを生かして、サミットで英仏語を両方話せるのは自分とカナダの首相だけと会話の中心に座り、ちゃっかり記念撮影の中央に収まった。

1983年のウィリアムズバーグサミット。レーガン大統領(右から4人目)、サッチャー首相(同2人目)らと記念撮影(Wikipedia)

アジアでも日韓関係がこじれると、韓国歌謡「黄色いシャツ(ノランシェスエ・サナイ)」を韓国語で歌えるように練習して全斗煥大統領との懇親会に臨んで成功させ、胡耀邦主席との個人的信頼関係も確固たるものだったし、靖国神社参拝はアジア諸国との関係に致命的な打撃を与えることを知るや君子豹変して中止した。

中曽根はいわゆるタカ派だが、「恨まれないタカ派」である。昨今の若い政治家は、相手の感情を逆撫ですることそのものをもって目的としているようにすらみえる。そういう人たちは中曽根の知恵をもういちど勉強するべきだろう。

世界の大国の指導者として、本格的な首脳外交をになえる模範的な役割を果たした功績は長く記憶されるであろう。

繁栄の息の根を止めたバブル経済

だが、国内経済政策はいただけない。バブル経済を生みだし、世界経済の頂点に立ったこの国を一気に奈落の底へ突き落とした罪の第一義的な責任をとってもらわざるを得ないだろう。

このころの日本経済の課題は、内需拡大と財政再建だった。膨大な国際収支の黒字を縮小するためには、輸出で得た財力を国内での投資や消費にまわし、それによって輸入も増やすことが求められていた。

そのためには、新しいタイプのインフラ整備と、貯蓄を減らし消費を拡大することが求められていたが、それでは財政需要は無限に増えてしまう。だが、増税は難しい。そこで、中曽根が選んだのは、民活路線だった。しかも、このころ「四全総」草案が発表され、それまでの地方分散策を否定し、東京一極集中を是認した。

これが、論理必然に、投資を東京都心部に集中し、土地など不動産の急騰を招いた。さらに、金融が緩んでいたので割安感が出た東京以外の大都市の不動産や、東京に土地を持つ大企業の株に波及した。国有地の放出なども、むしろ、投資熱をあおる逆効果となった。

東京の地価上昇が異常なものであることは誰しも認めたが、政府は、「これ以上の値上がりと地方への波及を防ぐ」という路線に固執した。値下がりはまずいというわけだが、市場原理からいって、割安感の出る郊外や関西などへの波及は止めようがなかった。

東京都の鈴木俊一知事は、事務量の多さという小役人的理由で地価監視などの対策をサボタージュした。その十数年前のオイル・ショック時に霞ヶ関が全省庁総がかりで対応したのと比べても、この怠惰は我が国の行政が犯した歴史上最大級の誤りだった。

しかも、このバブルに対して、大蔵省は増収になり財政再建になるとして歓迎し放置したふしがある。地価を下落させることについても、「土地本位制」のもとでは信用システムの破壊になるとして躊躇した。

だが、いずれにせよ、最初の段階で「急冷」しておけば、バブル崩壊にともなうダメージは最小限にとどまったはずだから、それを怠った歴代内閣、とくに中曽根首相の責任はあまりにも重い。長い逡巡(しゅんじゅん)ののちに、ようやくブレーキがかけられたひとつのきっかけになったのは、中曽根内閣末期に自民党が伊東正義政調会長のもとで出した「緊急土地対策」である。

この要綱の草案は私ともう一人の官僚が個人的に依頼されて書いたのだが、もっとも抵抗があったのは、「これ以上の上昇防止」でなく「値下がりをめざす」とすることと、「銀行の責任を問い、融資を増やさないこととする」ということだった。なんとか、これを機に方向転換が始まったのだが、バブル初期にこの手を打っておけば「日は沈まなかった」はずである。

中国では朱鎔基が日本での中曽根政権の失敗を教訓として正しく研究し、急速な拡大期にバブルを巧みに抑えたので堅実な成長路線に乗ることができた。中曽根と朱鎔基という宰相の経済政策についての理解力の違いが両国の興隆と没落を決定したのである。アジアの二つの大国は歴史の岐路で、天国と地獄への道をそれぞれ選んだ。

行革、民活、民営化についても、それぞれにメリットもあったのは事実だが、経済のバブル化の原因となったこと、鉄道の安全軽視など負の側面への配慮が足らなかったこと、などマイナス面もあわせ議論され進められるべきであった。

国鉄民営化でのちのJRでは旅客会社6つに分割(政府サイトより)

また、すでに鈴木善幸内閣の項で書いたように、社会福祉などの充実は増税で対処すべきものであって、株や土地など国の財産の売却や行政改革といった小手先ですむ問題ではなかったのだ。

いずれにしても、中曽根は外交においては史上空前の名宰相であり、経済については史上最悪のリーダーだった。

中曽根は教育や文化について多く語った。それ自体は正しいのだが、成果はなんなのだろうか。教育改革は必要だが、一方で、日本の初中等教育は世界最高と評価されてきたものであり、正当にそれを踏まえた改革でなければならないはずだった。教育関係者が激しく抵抗したのにも十分な理由があり、中曽根がこの分野でスタートを切るのに失敗したのも当然だ。

こうした保守派の人々は、どうして、極端な戦後日本全面否定の上に立って議論したがるのだろうか。戦後の日本が成し遂げた成果についての世界的な評価は高い。その基礎に立って、戦争から時間もたったのだから、そろそろ、ゆっくり軌道修正をするというなら、摩擦ははるかに小さいはずなのにそうしない。

また、中曽根の引き起こしたバブル経済こそが、拝金主義、軽薄さ、伝統的な町並みや自然景観の消滅など、日本文化の惨憺たる破壊をもたらしたのである。これでは、中曽根にとって不本意ではあろうが、文化とはパフォーマンスの対象でしかなかったのではと言われても仕方あるまい。

中曽根後継については、安倍、竹下、宮沢の三氏が候補とされた。田中の倒れたあとだっただけに、安倍のほうが無難という声が高まり、NHKは8人目の長州出身総理の誕生を待つ地元の映像を流していた。

だが、中曽根の指名したのは竹下だった。田中角栄の影を振り払うためには総理の椅子を手にしなくてはならないという竹下とその周辺の危機感が、残りの2人の甘い見通しを吹き飛ばした。

八幡 和郎
八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授