12月に入り中国広東省の興味深い記事を3本読んだ。「住民と警察の衝突」を報じた1日の産経、5日のこれも産経の「米中貿易戦争が“世界の工場”を揺さぶっている」という特派員報告と大紀元の「広州で道路陥没 当局、落下した3人助け出さずセメント注入」という記事だ。
広東省について思いつくことを挙げれば、客家が多く住む、アヘン戦争の舞台、孫文は広州市出身の客家、経済特区で改革開放の先導、中国No.1の経済力といったところか。加えて筆者には、広東省東莞市についてある知人から聞いた貴重な体験談があるので、本稿ではそれを紹介したい。
その前に3本の記事をざっと紹介する。
1日のは「中国本土・広東省で住民と警察衝突 香港混乱飛び火か 関連書き込み次々削除」の見出しに尽きる。火葬場建設に反対する住民が香港デモの合言葉「時代革命」を叫び、警官隊が催涙ガスや警棒で押さえ込んで50人を逮捕したというもの。アップ画像が削除されたところに当局の焦りが窺える。
5日の大紀元はいかにも中国らしい。広州で道路が陥没し車が落ちた話はテレビで報じられたが、記事は後日談。落ちた3人を救出せずにセメントを流し込んだというのだ。以前、新幹線の事故車両を埋めた事件があったが、この国の人命軽視ぶりを象徴する近代国家とは思えないすさまじい出来事だ。
産経の方は、広東省に「米中貿易戦争が与えた衝撃の実情」の特派員による4400字の取材で、読み応えがある。かつて「中国のデトロイト」と称された広州は、18年に28年ぶりに前年割れした新車販売台数にみられるように「不景気が自動車の街に影を落としている」らしい。
海外からの受託生産が盛んな東莞市(とうかんし)の工業団地も、周辺にある工場を見て回ると、正門前など最も目立つ場所に「工場建屋を部分貸しします」という看板が立つという。「受注減で生産ラインの多くが止まっているためだが、苦境はどこも同じなので新規の借り手は皆無」だそうだ。
東莞は最盛期10万人が働き「中国最大の靴工場」と呼ばれた。工員向けの集合住宅が立ち並び、幼稚園や運動場、郵便局、映画館などあった。が、数年前からベトナムなどに移転し、元従業員は「中国靴網は1万2千人が残っているとしているが、“1千人位しかいないと思う”と力なく話した」という。
主たる理由は人件費の高騰で、「ベトナムでは一般工の賃金が中国の半分から3分の1程度」な上、「労働争議も頻発」し、「また東莞特有の事情として、全国的に知られた風俗産業が徹底摘発されて“必要悪がなくなった”という指摘も」あるそうだ。
特派員の東莞報告はどれも筆者の知人(X氏とする)の話を蘇らせる。X氏が初めて東莞に入ったのは20年ほど前。工場用地を探しに訪問した鎮の鎮長(区長)の宴席のテレビが、シュレーダー独首相の初訪中のニュースを伝えていたのを妙に鮮明に覚えているという。調べると彼の首相在任は98年10月27日から7年間だ。
当時X氏の会社(仮にA社)は、東莞に子会社が小規模の工場(a社)を持っていたのだが、A社本体の比較的大規模な工場もあった。伝手はa社とA社の取引先で東莞に工場建設中のB社だけだったそうだ。
まず香港入りしたX氏は鉄道でa社の社員が待つ深圳に向う羅湖で入国手続きをしたのだが、ビルの階段を上がり降りし、ベージュの軍服?を着た係員に入国審査を受けたという。その後は香港の駅か列車内で済む様になったらしい。アレンジされた深圳の工場何件かを車で回ったが、どれもビル工場で名刺か葉書大のごく小さな液晶を作っていたそうだ。
家電やAV機器の表示用と思われ、今日のような液晶ディスプレー大国は想像できない。ビル工場は目的ではないのでB社の建設現場に向かい、道すがら目についたのはビルの建設現場。裸足でヘルメットも着けず、竹で組んだ足場に登っていた。広州の埋め戻しを見れば人命軽視は今も20年前と変わらない。常平駅頭には顔にケロイドのある子供の物乞いがいたそうだ。
X氏はB社で取材した後、a社の工場を視察した。そこはオーデオ機器用のプラスチック部品の成形工場で、ほとんどが20歳前後と思われる若い女子工員が数百人いた。彼女らは主に目視検査の要員で、広西省や貴州省から出稼ぎに来ている農民工(農民戸籍の者)だった。
隣接する寮を見せてもらうと、8畳ほどの部屋の左右に4段ベッド2つの8人部屋。みな3~4年稼いで故郷に帰るので残業は大歓迎とのこと。食堂で従業員用の立派な食事をしたが、他社の引き抜き防止のため食事は質も量も手厚かったそうだ。
当時の日系企業(香港や欧米企業も)の事業形態もX氏の記憶する範囲で聞いた。それは広東省方式の「来料加工」と呼ばれる一種の委託加工。親会社はまず香港にペーパー会社を設ける。もちろん販売などを行う場合もあるが、多くはペーパー会社だ。仮にP社としよう。
東莞市の鎮(※鎮は県や市より規模の小さい郷級行政区の一種)はP社の依頼で会社(p社)を設立し、工場建設や従業員募集など一切を行う。P社は設備を買ってp社に貸与し、経営者と幹部を送り込んで経営指導の名目で実質p社を経営する。土地建物の賃借料や従業員給与、その他経費などはP社が鎮に毎月支払うという仕組みだ。
必要資金はP社の社員が香港から毎月現金を電車で運ぶ。p社は東莞市の鎮の会社なので組合も労働争議もない。もしあっても直ぐに鎮が“鎮め”る。実に巧妙に考えられた仕組みで、この来料加工方式が広東省に数千数万の外国投資を呼び込んだ。
だが、この来料加工はその後何年か経って突然に廃止され、投資企業は撤退するか、あるいは「進料加工」と称する自前で設けた会社への切り替えを余儀なくされて、だいぶ混乱を招いたとのことだ。
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次は土地探しの話。東莞初訪問の後、挨拶に行ったB社本社の社長さんから、X氏は東莞市が新宿に「東莞市投資案内所」を開設したとの話を聞く。押っ取り刀で新宿に案内所を訪ねるとテレサ・テンに似た所長を名乗る女性が現れ、上海出身とのことだが日本語は上手かったという。
X氏がクライアント第1号だった。斯くて次からの東莞巡りは東莞市差し回しのベンツと相成った。東莞市には23の鎮があるが、回ったのは深圳からp社のある橋頭鎮を結ぶ市の東寄りの道路に沿った、南から塘厦鎮、樟木頭鎮、謝崗鎮、常平鎮だったそうだ。
驚くことがいくつもあり、樟木頭で案内された土地は民家も点在する原野だったが、鎮長は「大丈夫」と。数か月後再訪した時はすっかり整地されていたそうだ。電気と水はどうかと問うと、竜眼の木を掻き分けて山に入り、貯水池を見せてくれた。
招宴にも驚いたそうだ。昼間は鎮長と党の区長以下数人と名刺交換しただけなのに、見知らぬ顔が10名ほどいる。様子を窺うと、客人そっちのけでそれぞれ話に興じ楽しそう。テレサ(案内所長)の話では、彼らは部下と出入り業者で、立地の暁に利権を与えるので費用を持て、と呼ぶのだそうだ。
シュレーダーの報道を見たのはこの時らしい。他の鎮でも大同小異で、X氏は半年ほどの間に数回現地入りしたそうだ。ある鎮では鎮長と党の区長とが入れ替わっていて、当然、党の区長が上位だが、双方意に介する様子はなかったそうだ。
今はハーウエイの超モダンな研究所などもでき、東莞はかつての「性都」の汚名を返上したようだ。だが、当時はカラオケの大部屋に10名ほど女性が何組か入れ替わり立ち替わり現れ、客が相手を選ぶ。中には客の会社の従業員がいたりしたそうだ(X氏がどうしたかまでは聞いていない)。
鎮の一つと契約して工場を建て7年ほどで撤退したそうだが、大きなトラブルはなかったとのこと。来料加工方式での投資側の撤退の課題が、貸与設備の持ち出しに限られたからではなかろうか。
以上、知人X氏の現在とはだいぶ異なる20年前の広東省に関する思い出話でした。
高橋 克己 在野の近現代史研究家
メーカー在職中は海外展開やM&Aなどを担当。台湾勤務中に日本統治時代の遺骨を納めた慰霊塔や日本人学校の移転問題に関わったのを機にライフワークとして東アジア近現代史を研究している。