報道によれば、「英語民間試験活用延期」に続いて、国語と数学での「記述式問題」の導入延期を政府は検討に入った。思考力や判断力などの幅広い学力を把握するために導入される記述式問題だが、採点を民間事業者が行うことをめぐって、「採点の質の確保」や「公平性」の観点で懸念があることを受けての措置だ。そんなもの、公的に試験をしても採点期間が短く多くの人材投入をしなければ、同じことであってためにする話だ。
もしそういうことになれば、混乱を招いたことは失政だし、野党もその責任を問うほうが「桜を見る会」の追及よりよほど政府に打撃を与えられるだろう。「桜を見る会」については、少し脇が甘かった印象はあるが、「モリカケ」に見られたように、長期政権の最大のスキャンダルがこの程度の“些事”であるのは、安倍政権がすばらしくクリーンだということの証拠にしかならないと思う。
一方、こちらの試験延期をどう捉えるかだが、私は反対だ。安倍内閣は史上最長の在任期間に見合った最大級のレガシーを放棄することになりかねない。どうも安倍政権は、憲法改正をしたいばかりに、ほかの分野での抵抗勢力を排しての改革に勇気をふるわず逃げる傾向があるが、これもそのひとつだ。
英語民間試験については、5年間の延期という、事実上の方針撤廃という乱暴な措置を執ったが、「記述式問題」については、不安解消のためというなら、とりあえず、最初は「配点を小さくする」と言うようなことに留めて、改革の方向性は維持するようにすべきだと思う。そうでないと、旧来型の安直な教育を苦労せずに維持したい守旧派を喜ばすだけだ。
「英語民間試験」と「記述式問題」という「入試改革」が必要となったのは、現在のセンター試験のマークシート方式によって、教育が歪められ、本来の学力の測定ができないし、日本人が本当に必要としている語学力や文章力、思考力の陶冶の妨げになっているという問題意識があったからだ。
私は『フランス式エリート育成法』(中公新書)、『逃げるな、父親―小学生の子を持つ父のための17条』 (中公新書ラクレ)という2冊の教育についての本も書いているのだが、そこで最も強く主張したのは、日本の入学試験が、試験をする側の手間を省き、受験料を稼ぐという供給側の経済論理に基づいており、消費者たる受験生の利益になっていないことだということだ。
フランスでは、バカロレアという大学受験資格試験があるが、これは、高校の卒業試験であり大学入試でもあり、莫大な費用と人的資源の投入が行われる。試験官はよその高校の先生で、その分、教える時間や予算が犠牲になっても、正しい試験をしないことの悪影響の方が大きいという哲学だ。記述式どころか、数学にまで口頭試験がある。
また、エリート校では独自試験が加わるが、多くはよく似た学校で共同試験だ。日本でも旧帝国大学とか東京六大学などそれぞれ共同の試験にすればいい。英語民間試験を2回受けたら1万3千円ほどかかるが、会場は県内だ。たいした話ではない。費用を問題にするなら、大都市まで出向かせれ学部ごとに3万5千円とる方こそ問題すべきで、私は共同試験や個別試験でも共通会場の提供によって、受験生が県内で受験をすべてできるようにすることこそ工夫すべきだと思う。
記述式だと採点が不公平などというが、それなら、マスコミの試験や政党の候補者公募もマークシート方式だけにすればよろしい。公平でもそれが教育を歪めるようなものであることの方が問題なはずだ。
個々の大学のやっている入学試験における記述式の採点は、そんなに充実した公平で受験生に予測可能な採点をしているのか?ありえないだろう。あるいは、期末試験などマンモス大学ではどんな採点しているのだろうか。
いずれにせよ、もし、公平というなら、採点期間を長くして、本人に点数通知してクレームも認めるしかないのである。
八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授