北朝鮮では誰が「全てを失う」のか

長谷川 良

北朝鮮国防科学院報道官は8日、北西部・東倉里の「西海衛星発射場」で7日午後、「非常に重大な実験が行われた」と発表した。西側情報によれば「大陸間弾道ミサイル(ICBM)用のエンジン燃焼実験」と受け取られている。

その直後、北朝鮮の在ニューヨークの金星国連大使は7日、「非核化はもはや(米朝)協議のテーブルから下ろされた」という声明を発表した。そして金英哲労働党副委員長は9日、「わが国にはもはや失うものがない」と述べ、米国トランプ大統領に対し警告を発している。

▲板門店でトランプ大統領、金正恩委員長、文在寅大統領の米朝韓3国首脳が結集(2019年6月30日、韓国大統領府公式サイトから)

▲板門店でトランプ大統領、金正恩委員長、文在寅大統領の米朝韓3国首脳が結集(2019年6月30日、韓国大統領府公式サイトから)

このニュースを読んで「北の非核化がもはや協議対象とならない」という金星大使の発言は正直な告白だと思った。朝鮮半島の政情を知っている人ならば、最初から北朝鮮が完全な非核化に応じるとは考えてもいなかったので驚かない。驚いたのは金英哲副委員長の「わが国はもはや失うものがない」(朝鮮中央通信)という発言だ。本当だろうか。

一方、トランプ米大統領は8日、ツイッターでその直前、北の金正恩朝鮮労働党委員長に対し「(米国が武力行使をせざるを得ないような)敵対的行為を取れば全てを失うことになる」と警告している(「トランプ氏が北に送ったメッセージ」2019年10月29日参考)。

ここでは「失うものがない」という金英哲副委員長の発言と「全てを失うだろう」と語ったトランプ氏の警告について考えてみた。どちらが事実であり、どちらがフェイクだろうか。金英哲副委員長が述べた「失うもの」とトランプ氏の「全てを失う」といった時の「失う」が見事なほど北朝鮮の情勢を言い当てているのに驚いたのだ。以下、説明する。

金英哲副委員長は、「わが国は失うものがない」というが、じっくり考えるとやはり「ある」のだ。そして失うものがあるのは取りも直さず金正恩氏だ。祖父の金日成主席、そして父親の故金正日総書記から継承した3代の金王朝があるのだ。

世界最強の米軍と軍事衝突すれば、かなりの確率で「北の敗北」は間違いないところだ。すなわち、金王朝の崩壊だ。通常の場合、金ファミリーは処刑されるかもしれない。運が良ければ、ハーグ(国際司法裁判所)の戦争犯罪人の法廷に送られるかもしれない。どちらに転んだところで、金正恩氏はトランプ氏が警告したように「全てを失う」ことになることが予想される。

北は失うものがあるのだ。ただし、金英哲氏がいったように、大多数の北の国民は「失うものがない」。そもそも人間の基本的要求、衣食住から言論の自由、信仰の自由まで蹂躙され、人権はまったく保証されていない社会で生きているからだ。北が米軍と衝突して金王朝が崩壊すれば、独裁者金正恩氏は全てを失うが、国民はこれまで失ってきたものを再び取り返すチャンスが出てくるだけだ。故金日成主席が国民に約束した「白いご飯に肉のスープを食べ、瓦の家で絹の服を着て暮らす」生活を実現できるチャンスだ。

まとめるならば、金英哲副委員長の「失うものがない」という発言は北の国民の立場を言ったのであって、独裁者・金正恩氏ではないわけだ。一方、トランプ氏の「全てを失う」といった内容は明らかに金正恩氏に向けた発言だ。

トランプ氏がそこまで厳密に考えて「全てを失う」と語ったかは不明だが、その発言は間違いではないのだ。金英哲副委員長とトランプ氏の両者の発言は正しいが、前者の発言は独裁者と国民の立場の相違を忘れて受け取れば、誤解してしまう危険性があるだけだ。

もちろん、金英哲氏が本来言いたかったことは少し違う。北朝鮮は久しく国連制裁下で生きてきたので、追加制裁されても問題がない、といった思いがあるのだろう。また、金正恩氏を「友」と呼び、対北外交を外交成果の一つに挙げているトランプ氏にとって北との非核化交渉が暗礁に乗り出せば、次期大統領選でマイナスだろう、といった意味合いも込められていたはずだ。

言葉は面白いものだ。「失うものがない」という発言だけが独り歩きし、それは皮肉にも北朝鮮の状況をもっとも適格に描写しているのだ。確かに、北の国民は「失うものがない」から怖いものがないが、「失うものがある」独裁者・金正恩氏はトランプ氏の警告(全てを失う)を忘れることができず、不眠の日々が続くわけだ。

ウィーン発『コンフィデンシャル』」2019年12月11日の記事に一部加筆。