何故、議事録は削除されるのか?
臨時国会が閉幕した。この国会では森ゆうこ議員らによる原英史氏に対する人権侵害や「桜を見る会」が話題になった。これらの騒動の中で少なからず「情報公開」について考えさせられるものがあった。具体的に言うと議事録・公文書についてである。
まず議事録についてだが今井雅人、柚木道義両議員が誤認したTwitterの時間表示を根拠に質問通告書の漏洩について審議した。議論の前提が誤っていたのだから国会議事録から削除すべきであり、それについてはこのアゴラでも取り上げられた。
(アゴラ:池田信夫氏『今井雅人・柚木道義議員の「サンフランシスコ質問」は議事録から削除せよ』)
しかし、この「議事録の削除」について違和感を抱く方もいるのではないだろうか。「議事録」という言葉を素直に受け止めれば発言者の発言内容を余すことなく記録することが議事録である。「議事録は本来、削除出来ない」と考える方も少なくないと思われる。
このことについて題材こそ異なるがかつて朝日新聞も関心を持ったことがある。
議員の「失言」、相次ぐ議事録削除 痕跡残らぬケースも(朝日新聞デジタル 2018年4月4日)
では何故、議事録は削除されるのか? それは「記録」とは客観的に検証されなくては意味がないからである。失言・不規則発言は客観的な検証に耐えらないものであり、記録の意義を損なう。誤った情報に基づいた記録は検証以前の話であり、今回の騒動のように不当な人権侵害を招くだけである。
また、議事録の削除は発言者の利益にもなる。検証に耐えられない失言・不規則発言は悪用される可能性が高い。失言・不規則発言は発言者の「自業自得」とは言え過剰な批判に晒される可能性が高く、大局的に見れば議論を委縮させかねない。失言・不規則発言は実際の会議の場では案外、違和感がない。
発言内容が貧弱でもその場の「雰囲気」や「空気」発言者の「情熱」から言いたいことは伝わるものである。しかし「活字」になるとその「雰囲気」や「空気」「情熱」はもちろんわからない。
活字化された失言・不規則発言はその内容によっては発言者が「尋常ではない人物」と読み取られる可能性すらあるし、発言者の「敵」はそう主張するだろう。議事録の削除とは「活字の威力」の統制手段である。
そしてこの活字の威力に鈍感なのが森ゆうこ・今井雅人・柚木道義の議員達である。
「底が抜けた」森ゆうこ議員
桜を見る会では出席者の名簿の破棄が話題になった。これにより左派マスコミは「公文書管理」について色々述べている。しかし名簿は純然たる個人情報であり個人情報保護の観点で言えば利用目的を達成したら即座に破棄することは必ずしも誤りとは言えないし、むしろその方が望ましいとも言える。
桜を見る会を追及する野党・左派マスコミに個人情報保護の観点はあるだろうか。そもそも名簿を閲覧してどうするのだろうか。左派マスコミは参加者に取材するのかもしれないが、その取材は相手を尊重したものだろうか。メディアスクラムを行わない保証はあるのだろうか。メディアスクラムは極めて深刻な問題である。
例えば森友学園騒動では籠池佳茂氏(籠池泰典氏の長男)はメディアスクラムが籠池泰典氏に悪影響を与えたと主張している。
「反省告白」籠池長男が語った驚愕の実態|小川榮太郎×籠池佳茂(Hanadaプラス)
佳茂氏の主張を素直に受け止めるならば、マスコミのメディアスクラムによって特定個人が恐怖のあまり混乱し、それを反安倍が利用し国会審議を長期間にわたり停滞させたことになる。森友学園騒動で反安倍が主張する「首相の関与」の決定的な証拠が今なお出ていないことを考えれば佳茂氏の主張は説得力がある。
森友学園騒動に限らず今年は重大事件が相次ぎメディアスクラムが少なからず話題になったが左派マスコミからメディアスクラムを否定する意見は聞いたことがない。
問題はメディアスクラムに限られない。
今はSNSの発達によりあらゆる分野で「類は友を呼ぶ」現象が起きており、攻撃的な人間が結束して行動しやすい時代である。仮に桜を見る会の名簿が流出した場合、一部活動家による参加者への私的制裁の危険性も否定できまい。
何よりもこの名簿騒動で驚かされるのは原英史氏の個人情報を漏洩させた森ゆうこ議員が名簿の破棄を批判していることである。
個人情報の保護に重大な瑕疵がある人物が、どうして個人情報の管理について批判できようか。森ゆうこ議員は「底が抜けた」と言わざるを得ない。
森友・加計学園騒動以来、公文書管理が注目されているが、この桜を見る会の騒動を見てもわかるように公文書とは個人情報を多分に含むものである。
現役の地方公務員の筆者から言わせれば行政活動とは個人情報の取得を前提とした活動と言っても過言ではない。だから公文書管理の議論も「個人情報保護」の観点が欠かせない。
反安倍は好む「公文書は健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源」などの観念的な議論は実際的ではない。もっと地に足のついた議論をすべきである。
偏向報道は「情報公開」の意義を失わせる
議事録・公文書管理の問題は雑駁に言えば「情報公開」の議論といっても良いだろう。そして情報公開で求められるのは「意思決定過程」である。
権力が発表する結果だけ聞いても意味はない。重要なのは結果に至る意思変遷の過程である。
ところが臨時国会では国会審議は随分と空転したが、その国会審議に最も影響を与えている与野党の国会対策委員長同士のやり取りは記録・公開されていない。むしろそれが前提となって成立している。
左派マスコミから「野党の活躍」というニュアンスで紹介されるいわゆる「野党合同ヒアリング」だが、一応動画は公開されているものの、国対のような「事前の打ち合わせ」が行われている疑念が消えない。
情報公開の観点で言えば与野党の国対委員長が具体的にどんなやりとりをしているのか、野党合同ヒアリング前に野党議員とテレビ関係者が「カメラ映り」について事前の打ち合わせをしていないのかという部分が重要である。しかし55年体制型政治ではこの部分は記録されない。
日本で「情報公開」を議論するならばこの55年体制型政治についても議論しなくては意味がない。
国対政治とともに55年体制政治を担うものとは
控えめに言って「国対政治」は時折、問題視されるが、マスコミと政治家の接触・やり取りが議論になることはほとんどない。「テレビ映り」を意識した振る舞いはマスコミの協力なしにはできない。
「情報公開」の観点からいえばマスコミ、少なくとも記者クラブ加盟記者と政治家の記者会見以外での接触・やり取りも記録・公開されることが望ましい。
記者クラブ加盟記者が政治家の政策形成に影響を与えていないとは考えられず、記者クラブ加盟記者だって自分達の行動が政治家に無影響だとは言わないだろう。情報公開の責務は記者クラブにもある。
おそらく国対政治と記者クラブ加盟記者の暗躍が、55年体制型政治の車の両輪なのだろう。そしてこの体制から生まれるのが「偏向報道」である。
55年体制型政治を放置していればいくら公文書を公開しても偏向報道によって正確な情報が国民に伝わらないし個人情報が流出し国民が深刻な打撃を受ける危険性が高まるだけである。偏向報道は情報公開の意義を失わせる。
日本で真の意味での情報公開体制を確立したいのならば、55年体制型政治からの脱却が不可欠である。
高山 貴男(たかやま たかお)地方公務員