グレタ嬢と小泉大臣のことばかりが話題のCOP25だが、小泉大臣は日本の「2国間クレジット制度」(JCM)の活用拡大を発信した。台本通りとはいえ無難にその務めを果たしたと筆者は少し評価している。
JCMとは、優れた日本の脱炭素技術を途上国のCO2削減に役立て、その削減分を日本の温暖化対策の実績として組み入れる「2国間クレジット制度」。よく知られる通り日本の石炭火力発電技術は世界No.1。発展途上の国々には低コストで高性能な日本の技術が必要だ。
が、本稿ではCOP25ではなく、グレタ嬢を「パーソン・オブ・ザイヤー」として表紙に据え、小泉氏を「次世代の100人」に選んだ「タイム」とそれを創刊したヘンリー・ルースの話を書く。
ヘンリー・ルースは1898年4月3日、長老派宣教師だった父ヘンリー・ウィンタース・ルースと母エリザベスとの間の4人の子の長男として山東省煙台市蓬莱で生まれ、進学のため15歳でコネチカット州に戻るまでそこで育ち、現地の寄宿学校で教育を受けた。
厳格な宣教師だった父と中国で生まれ育ったことがルースの人格形成に大きな影響を与えた。「ヘンリー・ルース」(ジョン・コブラー著)には、朝6時過ぎから夜遅くまで、食事と散歩以外は聖書と中国語の勉強漬けだった、当時の猛烈なルースの日課が載っている。
米人生徒2割の英国系校で経験した鞭打ち刑や上級生によるいじめ、他人へのへつらいなどの英国式しきたりと、毎年夏に数週間を過ごした隣のドイツ植民地青島での出来事も、ルースのそれらの国への認識形成に影響した。前掲書はそのエピソードを紹介している。
「清潔な街並み、素晴らしい音楽や楽隊、私達はドイツ人町が好きだった。だが彼らは中国人の人力車夫の背中をステッキで殴りつけた。英国人は車夫を殴らなかったが、傲慢に振舞い最低の料金しか払わない。米国人は車夫を殴らなかったし、いつも余分に料金を払った。」
何年か経って語られたこのルースの思い出話には政治的な暗喩が込められていた。
「アチソンやラティモアは“帝国主義的”と非難されるのを危惧し、米国はアジアに介入すべきでないというがナンセンスだ。ウィルキーは米国のアジアへの善意が失われつつあるといったが、もし米国のアジア政策がその善意と手を組んで進められていたら、中国は共産主義国家になっていなかっただろう。」
学校新聞の編集長などを務めたエール大を20年に卒業したルースは、オックスフォード大での1年間の歴史研究を経て、暫くシカゴ・デイリー・ニュースの記者として過ごす。そして23年3月、ルースは仲間数名と週刊ニュース誌「タイム」を創刊した。
ルースの死の3年前、64年時点でタイム社が発行する雑誌には、29百万部の週刊「タイム」、7百万部の「ライフ」、1百万部の「スポーツイラストレイテッド」、40万部の「フォーチュン」などがあり、「タイム」と「ライフ」の国際版も世界中で13百万部が売られていた。
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「タイム誌の表紙を飾った人物一覧」なるサイトがあり、創刊した23年から60年まで見られる。23年から49年までの間に最も数多く表紙に登場した人物は、誰あろう11回の「蒋介石」だ。
S・シーグレーブの「宋家王朝」(岩波現代文庫)は、20世紀前半の中国を操った霞齢、慶齢、美齢、子文らの宋姉弟と、三姉妹の夫、孫文、孔祥熙、蒋介石らの生涯を描いた大傑作。同書で筆者は蒋夫妻が「タイム」の表紙になったことを読んだが、11回とは驚いた。
30年代に蒋介石が表紙になった日付と当時の出来事を挙げてみる。
- 27年4月4日 前年に蒋が国民党を掌握し北伐を開始、9月の上海クーデターで国民党から共産党排除。12月に宋美齢と結婚。
- 31年10月26日 美齢と共に表紙を飾ったこの年、美齢の勧めでキリスト教入信。9月には柳条湖事件を契機に満州事変勃発。
- 33年12月11日 5月の塘沽協定で満州事変終息。
- 36年2月24日 昭和天皇、満州皇帝溥儀、ソ連スターリンと共に表紙を飾る。
- 1936年11月9日 12月に西安事件が起き第二次国共合作。
- 1938年1月3日 37年7月の盧溝橋事件で日華事変始まる。美齢と共にカップル・オブ・ザ・イヤー。
41年12月8日に日米戦が始まり、翌42年6月1日には蒋一人で、43年3月29日には美齢と共に表紙になった。久しぶりだったが、これには40年末の大統領選をローズベルトと争ったウェンデル・ウィルキーの、大統領特使としての中国旅行が関係している。美齢がウィルキーを篭絡したのだ。
子文の米国の友人がウィルキーの帰国後の話を子文にこう伝えている。
ウィルキーの中国見聞録は米国人の琴線に触れた。彼は42年10月にラジオ放送したが、一個人がこれほど多数の聴衆に訴えかけたことはかつてない。翌日の新聞は「ウィルキーの説いたことは世界における米国の責任、国内における米国の責任を踏まえた崇高な福音」と書いた。
ウィルキーを魅了して自信をつけた美齢は42年11月、満を持して渡米し半年間滞在した。ハリー・ホプキンスが大統領の名代で出迎えた。美齢は早速、蒋と反りの合わない軍事顧問スティルウェル将軍の悪口とお気に入りのシエンノート将軍(フライングタイガース)の活躍をホプキンスに吹き込んだ。
宋家について少し触れておく。孫文と蒋の「金庫」として知られる父親のチャーリー・宋は9歳の1875年、叔父の養子として渡米。紆余曲折を経て南北戦争の英雄カー将軍の援助を受けてヴァンダービルト大神学部を卒業、宣教師となって中国に戻り、聖書の印刷で巨万の富を蓄えた。
子供達は米国に留学し、三姉妹は要路と結ばれ、ハーバードを出た子文は政府の外交を担った。美齢は慶齢と共に9歳で渡米しウェルズリー大に進んだ。流暢な英語と美貌で蒋の口として連邦議会や各地で講演、中国の窮状と日本の非を訴え、カイロ会談にも同行した。勿論、ルースが後ろ盾だった。
その後、44年12月18日には宋子文が表紙を飾り、終戦直後の45年9月3日には蒋が9回目の登場をした。後の2回は48年12月6日と55年4月18日。この頃にはスティルウェルらの報告で蒋や国民党の汚職体質を知ったトルーマンが既に蒋を見放していた。
さて、コブラーの前掲書には資産150億ドルのルース財団の施与先として、真っ先に中国国民党、そして米国中国学会、在中国統一教育委員会、ユニオン神学校、エール大、ウェルズリー大、台湾東海大などが挙がっている。
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最後にヴェノナ文書にもその名が登場する、かつて「タイム」の編集長だったウィタカー・チェンバースに触れて本稿を結ぶ。
コブラー前掲書は、ルースの部下で中国通のセオドア・ホワイトが国民党の悪弊を分析した記事を中国からルースに送ったが、「『タイム』はそれを没にし、代わりにスティルウェルを僅かに左翼がかった人物として扱ったチェンバースの特集記事を載せた」ことに触れている。
怒ったホワイトは「日本軍に戦果を挙げているのは毛沢東だけ」と伝えてきたが、チェンバースは「ホワイトが“赤”に染まった可能性を示唆し、ルースはそれを信じ込んだ」と書く。強烈な反ソ主義だったルースは44年にチェンバースを「タイム」のニュース編集長に据えていた。
チェンバースはソ連から離反した39年9月に国務次官補アドルフ・バールと会い、アルジャー・ヒスらソ連スパイ8名の名を告げた。が、バールはなぜか動かず、FBIがチェンバースを尋問するまで1年半を要した。表に出たは48年にヒスがチャンバースを名誉棄損で訴えた裁判だが、ルースはその前にチェンバースの経歴を知っていたのだろう。
今の「タイム」にルースの影響が残っているなどあり得まい。が、今回のグレタ嬢や小泉大臣の扱いを見て、日中戦争から終戦までの同誌やルースの中国と蒋介石への過度の肩入れが米国民の日本嫌いに拍車を掛けたことやチェンバースの話などを思い出した次第。
高橋 克己 在野の近現代史研究家
メーカー在職中は海外展開やM&Aなどを担当。台湾勤務中に日本統治時代の遺骨を納めた慰霊塔や日本人学校の移転問題に関わったのを機にライフワークとして東アジア近現代史を研究している。