記述式延期をもたらした「あいまいな日本の教育」

生徒が受験する国際基督教大学の過去問を解いていると、こんな選択肢が目に飛び込んできました。

30. 筆者の主張に最も近い考えはどれか。

d. 日本の公的な領域では、低コンテクストのコミュニケーションを定着させる必要がある。(a. b. c.の選択肢は省略)

(出典:『2019年度一般入学試験問題 総合教養【ATLAS】試験問題・解答 総合教養 問題冊子』)

低コンテクストのコミュニケーションとは、ざっくり言ってしまえば明快な意思疎通であり、高コンテクストのそれは「阿吽の呼吸」や「空気を読む」といった非言語的で曖昧な方法を指します。曖昧故に、その時々の状況・文脈(コンテクスト)によって、意味が変わってきます。

12月16日、大学入学共通テストで導入予定だった国語・数学の記述試験延期が発表されましたが、事の顛末を眺めるたびに、この選択肢が様々な意味で正答だと感じずにはおれません。「マークシート」の正答が、「記述試験」の延期をもたらした教育行政の欠陥について処方箋を提示しているようにも思え、何とも皮肉な感じさえします。

「記述式」見送りを表明する萩生田文科相(文科省YouTube)

日本の公的な領域では、高コンテクストのコミュニケーションにより政策が決まりがちですが、今回の大学入試改革はその典型例だったと言えます。拙稿「失敗が目に見えていた入試改革」で簡単に紹介したとおり、審議会に参加した有識者や、審議会の外にいる政界・経済界の有力者による根拠なき主張が影響力を持ってしまい、なんとなく改革の内容が決まっていく様子は、高コンテクストのコミュニケーションそのものです。

この、あまりに曖昧な教育行政を形作った原因のうち、本稿では教育法の法源とも言える教育基本法に注目します。

基本法第一条には、教育の目的は「人格の完成」であると記されていますが、驚くべきことに確固たる定説が未だ存在せず、結局この目的は何を意味するのかがよく分からないのです。事実、教育学者による論文・書籍を紐解くと、その解釈は多種多様であり確固たる定義を見出せません。

<人格の完成>がありうるか否かを問うことにより、<人格>という概念そのものが教育の課題とはならないとしたのがマルティン・ブーバーである。彼は「性格教育論」(Über Charaktererziehung,1939)において、<人格>と<性格>を分け、教育可能なのは後者であるとする。(中略)ケルシェンシュタイナーの場合は<人格>は目的としての<完成>であるが、ブーバーの場合は、それは人間にすでに備わっている状態での<完成>であるから、可陶冶性・可塑性を信じて教育する対象とはなりえないものなのである。したがって結論的には、彼の場合は<人格の完成>は教育によっては不可能であり、ありえないことになる。

以上のように、両者がまったく相反する人格観を述べているのは、それぞれの教育思想の相違によるとしか言いようがないだろう。
(齋藤昭著『教育的存在論の探求-教育哲学序説―』世界思想社、1999年)

こうした状況を打破するために、著者である齋藤氏は、数式で表したモデルによって人格を定義するという大胆な試みをしました。モデルとは、複雑な現実をそのまま表現するのが難しいため、重要なものだけを抽出して単純化したものを指します。齋藤氏がつくったモデルには数学的不備があるものの、数学は大変に客観的・論理的ですから、こうした方法であれば、どのような教育思想を持っていても同じ定義を導けそうに思えます。

しかし、この方法にも大きな欠点があります。どのように単純化するかは、モデルを作る人が任意で行うことなので、基本的にはどんなモデルだって作れてしまうのです。

写真AC

高校で習う古典物理学はモデルそのものです。そのモデルは実験によって実証されているため、モデル(数式)が一定レベルで現実を反映していることが保証されています。複数のモデルがあったとしても、より妥当なモデルを実験によって選択できるわけです。

ところが、人格に関するモデルは、古典物理学のように実験で実証することが不可能に近い。従って、実験以外の方法でどのモデルがより妥当なのかを判定することになりますが、そうなってしまっては、教育思想の相違によって妥当なモデルが変わってしまうでしょう。

結局、どんな教育思想を持つかによって「人格の完成」という目的の意味は変わることになります。つまり、教育の目的はいかようにでも解釈可能であるのみならず、自身の教育思想そのものが曖昧な場合には、その時々の状況・文脈によって目的の意味が変化するのです。果たして、こんな曖昧なものを目的と言えるのでしょうか。

このように、日本社会のみならず教育の目的も高コンテクストなので、教育を巡る議論は大変に高コンテクストになります。それ故に、なんとなく曖昧に教育改革が決まってしまい、欠陥もなんとなく放置された結果が、現在の混乱につながるわけです。

「d. 日本の公的な領域では、低コンテクストのコミュニケーションを定着させる必要がある。」は、紛れもなく正答です。

物江 潤  学習塾代表・著述家
1985年福島県喜多方市生まれ。早大理工学部、東北電力株式会社、松下政経塾を経て明志学習塾を開業。著書に「ネトウヨとパヨク(新潮新書)」、「だから、2020年大学入試改革は失敗する(共栄書房)」など。