篠田英朗氏の論考「「保守」と国連と安倍首相:山口敬之氏側に見る左右の場外乱闘」には、「事件は全く政治イデオロギーが介在するものではない」とあります。当然のことのように思えますが、その当然が認識されていないように私も感じておりました。それほど、政治的立場によって一方を悪と短絡的に決めつける方々が多く見られたということでもあります。
また、保守を標榜されるのであれば、もっと冷静に論を進めていただきたいと感じることも多々ありました。これまたあまりにも当然のことですが、保守は人間の理性を疑う立場ですから、自らの主張を正当化させる論理(理性)についても、十分に疑いの眼差しを向けるべきです。しかし、この事件に関して言えば、あまりに断定的な主張が散見されました。
なぜ、理性は疑わしいのか。ここでは、保守を標榜する多くの方々が読んだであろうベストセラー「国家の品格」を引用しつつ概説してみたいと思います。
数学の世界では、出発点はいつも、何らかの公理系です。公理というのは万国共通です。東西で寸分の違いもない。世界中のみなが同じ出発点を使っています。したがって何の心配もなく、論理的に突き進むことが出来る。(中略)数学とは違い、俗世に万人の認める公理はありませんから、論理を展開するためには自ら出発点を定めることが必要で、これを選ぶ能力はその人の情緒や形にかかっています。(中略)古今東西、いかなる戦争においても、当事者の双方に理屈がありました。自己を正当化するために、論理はいくらでも作り出せます。出発点の選び方によって、いかような論理を組み立てることも可能だからです。
(藤原正彦著『国家の品格』新潮社、2005年)
公理とは、とりあえず正しいと見なす前提と考えて大過ありません。「二本の平行線は絶対に交わらない」といった意味の公理が有名です。また、赤道に直角な二本の平行線は北極点で交わりますから、この公理は絶対に正しいものではなく、単なる前提であることも分かりますし、前提が違えば導かれる結論が異なるであろうことも理解できます。
著者であり数学者である藤原氏からすれば、言葉による論理は大変粗雑に見えるのでしょう。こんな不完全な言葉によって論理を紡ぎ、しかも自由に論理の出発点(公理)を決められるのですから、どんな論理だって組み立てられますし、必然的にどんな結論だって導けると考えるわけです。藤原氏の主張から、不完全な言葉による論理(理性)を妄信する危険性が理解できます。
経済学をバックボーンに持つ西部邁氏も、理性を疑うべきであるし、安易な断定は避けるべきといった旨の主張を盛んにされておりました。経済学は数学で表現されていますから、これ以上ないくらい論理的な数学を深く学んだがために、両氏は人間の理性を疑う必要性を皮膚感覚で認識されたのだと思います。数学を知れば、言葉による論理があまりに不完全であることも分かるということです。
古今東西の保守思想に関する書籍を読み、理解と共感を深めれば深めるほど、日本における保守思想のあまりの特異さに閉口することが多くなっていきました。ブッキッシュ(bookish)に思われるかもしれませんが、普遍的な意味での保守思想を確認せずして、どうして日本における保守思想のあり様を考えることができるのだろうとも思います。
単純化された結論を妄信し声高に叫ぶことは、保守思想が最も忌み嫌う振る舞いのはずです。どういった結論を持ち、そしてどのような主張をすることも自由ではありますが、あまりに断定的な主張は避けるべきではないでしょうか。
荒唐無稽な反対意見を主張する人々がおり、彼らに対し怒りを覚える感覚は共感しますが、だからといって荒唐無稽な人々と同じように振舞ってよい理由にはならないはずです。
物江 潤 学習塾代表・著述家
1985年福島県喜多方市生まれ。早大理工学部、東北電力株式会社、松下政経塾を経て明志学習塾を開業。著書に「ネトウヨとパヨク(新潮新書)」、「だから、2020年大学入試改革は失敗する(共栄書房)」など。