あいちトリエンナーレで見えた本当の「表現の不自由」

高山 貴男

近年、稀に見る「腐敗」 

この夏、世論を賑わしたあいちトリエンナーレ2019の最終報告書と提言書が検証委員会より愛知県知事に提出された。最終報告書の内容は中間報告書の内容を発展・強化させたもので根本・大枠は変わっていない。

「表現の不自由展・その後」に関する調査報告書(案):愛知県サイト

報告書では「『反知性主義』の存在が可視化されたのではないか」(P5)とか10,379件にまで達した電話、FAX、メールによる抗議を「電凸攻撃」(P8)の一言で終わらせるなど驚くほど一方的である。行政が出す報告書でここまで一方的なものも珍しい。

提言が出された検証委員会の会合(NHKニュースより)

さて、この騒動で特に批判に晒されたのが芸術監督を務めた津田大介氏だが、彼への批判はあくまで芸術監督という「権力者」への批判であり「表現の自由」云々はミスリードである。芸術家でもない津田氏が作品を選出するなど異例というより異常である。

また「表現の不自由展・その後」への批判だが展示物が愛知県の振興とあまりにも無関係だったこと(浮いて見えた)とネット上で特に評判が悪かった昭和天皇の肖像写真の焼却は「痛み」「不快」を伴う表現であり、公的支援の対象に適さないからである。

KBSニュースより

「痛み」「不快」を伴う表現をどうして行政が支援するのか。完全な行政の自己否定である。しかも津田氏は在日コリアンの方々への「痛み」「不快」を伴う表現、いわゆるヘイトスピーチの熱心な批判者だった。

芸術家の増長も甚だしく正視に耐えるものではなかった。彼(女)らの一連の主張は「特権」の要求に他ならない。

あいちトリエンナーレの受益者はあくまで愛知県民であり、芸術家ではない。芸術家の位置づけは「専門家」に過ぎず、彼(女)らの主張は例えるなら「医療政策は医者の意見だけを聞いて決定すべきである」と主張しているのと同じである。

入場者数は記録を更新したようだが「悪目立ち」ではないか。「結果オーライ」というならばもうなんでもやれば良い。

例えば平和の少女像の破壊パフォーマンス(少女像はたくさんある)、殺人現場の写真、動物の殺処分の映像(愛知県にはあるはず)、思い切ってポルノ映像を流してみてはどうか。

ポルノ映像は名古屋の歓楽街で簡単に入手できるのではないか。「肌の露出」は相当な集客が見込まれるはずである。

もちろん、冗談だが、公的支援である以上、公益性が問われるのは当然である。しかし、それは無視された。

あいちトリエンナーレ、少なくとも「表現の不自由展・その後」は一部の関係者・芸術家・ジャーナリスト達に消費されたと言えよう。近年、稀に見る「腐敗」と言わざるを得ない。

もしかして「凡人」だから?

あいちトリエンナーレでは実行委員会方式が採用され、行政(愛知県・名古屋市)は後方支援に徹した。

今回の騒動では行政は「金は出すが、口は出さない」という、いわゆる「アームズ・レングス」の重要性がよく指摘された。このアームズ・レングスは提言書でも触れられている(P38)

今後の「あいちトリエンナーレ」の運営体制について(第一次提言)(案):愛知県サイト

しかし、公的支援を行う以上、その公益性を確保しなくてはならないし、対議会・対住民への説明責任が発生するので行政が全く「口を出さない」ということはあり得ない。筆者は現役の地方公務員だが、誤解を恐れずに言えば行政が実行委員会方式を採用するのは事業内容に「口を出す」ためである。

「表現の不自由展・その後」のように開催趣旨(事業目的)に合致しない作品の展示を防止するために行政が実行委員会の一員として主催者権限を通じて特定作品の出展拒否・修正を迫ることはなんら問題ない。あくまで主催者権限による措置だから「検閲」でも「表現の自由」への不当な干渉でも何でもない。

そしてこの「口を出さない」というのもあまりにも観念的である。例えば日本刀は芸術品として展示されることがある。しかし日本刀は本来、武器であり他人を殺傷する能力を持つ。芸術品として日本刀を展示する際に武器としての性質に着目して危機管理上、鑑賞者が勝手に持っていかないよう固定するとか「立入禁止ライン」を定め日本刀と鑑賞者との間に「適切な距離」を設定する、作品と鑑賞者との距離は作品評価に重大な影響を与えるがこの設定を根拠に「口をだした」と主張する者はおるまい。あくまで危機管理上の正当な介入である。

この危機管理の例を見ても芸術家が提出した物を直ちに「芸術品」として評価し、外部からなんら干渉を加えてはならないということはない。

あらゆる「モノ」は多面的である。角度をつけてみれば色々な面が見える。同じ「モノ」でも「美しい」とか「神秘的」と感じる面もあれば「危険性」を感じる面もある。

公的事業である以上、提出者は誰であれ「モノ」を多面的に見つめ、総合的に評価にし国民の利益に資するもの、あいちトリエンナーレで言えば愛知県民の利益に資する作品の展示しか許されない。

「モノ」の一面しか見えないのは「凡人」である。「凡人」は一面しか見えないから別の面を指摘されたときに混乱し過剰反応を示す。あいちトリエンナーレで見せた一部芸術家達の姿勢、雑駁に言えば「私は芸術家である! だから私が提示した『モノ』は芸術品であり、一切の干渉は許されない。干渉は『表現の自由』の侵害である!」という姿勢は過剰反応であり、筆者から言わせれば「凡人」そのものである。「凡人」だから表現力の向上より補助金にこだわっているのかと思うのは少し性格が悪すぎるだろうか。

本当の「表現の不自由」

あいちトリエンナーレの騒動ではリベラル(護憲派憲法学者、朝日新聞、ハフポスト等)は日本国憲法の「表現の自由」を繰り返し強調し、あとは「先進事例」として海外の情報を紹介することばかりが目立った。

表現の不自由展中止直後の8月4日付朝日新聞より(編集部撮影)

しかし憲法解釈とは特定の条項を強調するのではなく各条項を総合的に解釈するものである。あいちトリエンナーレでは「公共の福祉」はもっと深く論じられるべきだった。「痛み」「不快」の表現が公共の福祉に反しないなどあり得ない話である。また海外の情報もあくまで「参考」に過ぎない。

今回の騒動ではリベラルはある文書(憲法)の都合の良い部分(表現の自由)だけを強調して他の部分(公共の福祉)は意図的に触れない、あるいはほんのわずかだけ触れた後、唐突に「先進的」な海外の事例を紹介して包括的に説明したと錯覚させ自分の都合の良い結論に他人を誘導する、まるで「詐欺師」のような振る舞いを見せた。リベラルは日本国憲法を自己利益の道具にしたのである。

普段、「憲法は権力者を制限をするものだ」と主張しているリベラルがここぞとばかりに権力者(愛知県知事・芸術監督)と結託して憲法を自己利益の道具に用いたのである。他者攻撃、詐術を伴う利用法だから憲法を「支配の道具」に用いた、立憲主義とは真逆の運用と言っても良いだろう。

「芸術界」という狭い世界の出来事とはいえあいちトリエンナーレ騒動で見えたものは日本のリベラルが権力を握った世界であり、そこはリベラルから最もかけ離れ世界であり、まさに「表現の不自由」な世界である。

あいちトリエンナーレで大村秀章実行委員会会長と津田大介芸術監督が見せたかった作品とはこのことかもしれない。筆者としてはもう二度と見たくはないが…

高山 貴男(たかやま たかお)地方公務員