リベラルではなく「リベラルの番人」
日本で「リベラル」を自称する者はたくさんいるが、彼(女)らの発言・振る舞いを見てもとてもリベラルとは思えない。例えばあいちトリエンナーレでは「痛み」「不快」を伴う表現(昭和天皇の肖像写真の焼却)への公的支援の是非が問われたが、リベラルはこの表現を「表現の自由」を根拠に肯定した。
また、自由社会に悪影響を与えかねない神奈川県川崎市のいわゆる「ヘイトスピーチ規制条例」もリベラルは積極的に肯定した。
日本のリベラルは「痛み」「不快」そして「規制」を肯定している。しかも積極的にである。このリベラルが権力を掌握する、例えば「立憲民主党政権」が成立した場合「在日コリアンへのヘイトを防止する」を名目に我々日本人の言論・表現の自由を規制する治安立法が制定される可能性は十分にあり得る話である。
それにしても「痛み」「不快」「規制」を肯定するリベラルとは何者なのか。リベラルとは「痛み」「不快」「規制」に反対する者ではなかったか。この三つを肯定する者がリベラルなはずがない。では、何者だろうか。安倍首相が言ったように「こんな人たち」だろうか。それも間違いではないが、正確ではない。日本でリベラルを自称する者の正体は「リベラルの番人」である。
彼(女)らは自分を一段高みにおいて「民主主義を守る」「平和を守る」「立憲主義を守る」「表現の自由を守る」などを名目に日本社会を攻撃(集団威圧等)する。その思考はあくまで「防御」で立ち位置は「番人」である。守備範囲の広さを考えれば「リベラルの番人」はシンプルに「体制の番人」とも呼べる。
日本で真の意味でリベラルな社会を成立させたいのならばこの「体制の番人」について議論しなくてはならない。
常に存在する「体制の番人」
いつの時代でも「体制の番人」は存在する。軍隊・警察は古典的な「体制の番人」であり、体制が民主・非民主を問わず存在している。また、自由民主主義体制では司法権が「体制の番人」であることが普通である。日本国憲法も最高裁判所に違憲立法審査権を認め番人の役割を求めている。
いかなる政治体制であろうと軍隊・警察は、安定的統制が求められるのが常であり、司法権も憲法裁判所を設置し積極的に番人の役割を果たしている国もあれば日本の最高裁判所のように消極的な国もある。
時々、議論になるのが憲法裁判所という積極的な番人の是非だが憲法裁判所を設置している国は大統領制を採用している国やドイツのように「独裁」で亡国の経験をした国とか、要するに強力な行政権の存在・経験を前提にしている。
今の日本は行政権(内閣)の実力がかつてより強力になったのは事実だが、憲法裁判所を設置するほどではない。
「体制の番人」はともすれば体制を超える存在になる可能性がある。番人はあくまで「防御」的役割だが防御はインフレを起こしやすく「攻撃」と変わらない状態になることが度々ある。
よく「全ての戦争は自衛から始まる」と言われるが、これは防御のインフレの危険性を指摘したものである。
それでも「体制の番人」が軍隊・警察・最高裁判所といった統治機構の一員ならば、その増長の防止策は議論しやすい。これらは公の存在だからだ。
問題なのは「体制の番人」でも統治機構の一員ではない「在野」にいる「体制の番人」である。
厄介な「在野の体制の番人」
大日本帝国を崩壊させた勢力として「国体」や「大日本帝国憲法」を神聖視した極右が挙げられる。彼(女)ら大日本帝国という政治体制を防御することに全く疑問を持たず、その「運用改善(解釈改憲)」すら反対した。戦前、少なくとも1930年代以降の極右はまさに「体制(大日本帝国)の番人」であり、その防御のためならば他人に暴力を行使することはもちろん、殺害すら肯定した。
極右は在野の存在であり、統制が極めて困難だったから番人思考が統治機構のそれよりも激しくインフレ化し、その結果、彼(女)らが守らんとした体制自体を崩壊させた。
戦前の極右は「在野の体制の番人」の危険性を教えてくれる。
今の日本の「リベラルの番人」もこの極右と同じである。「戦後民主主義」「平和国家」「日本国憲法体制」といった彼(女)らが考える「リベラルな体制」を防御するために在野から自分を一段高みにおいて「リベラルの敵」を探し、それに対して「痛み」「不快」「規制」を伴う攻撃を肯定している。
この「痛み」「不快」「規制」を肯定する「リベラルの番人」への対抗策を講じておかなければ戦後日本は大日本帝国と同じ命運をたどるだろう。
腐敗しやすい「体制の番人」
「体制の番人」とは本質的に「規制権力」である。何かを生産する、建設するといった能力はない。ただ自分を一段高みに置いて他人の行動や成果物を規制するだけである。他人を規制することは簡単だから「体制の番人」は腐敗しやすく、その結果として「体制を超える」のである。
今の日本の「体制の番人」たる自衛隊・警察・最高裁判所は公の存在であり外部からの監視・統制は完全ではないかもしれないが一応は機能しており、自由民主主義体制を超える可能性は低い。自衛隊への監視・統制は過剰なほどである。
一方で「在野の体制の番人」は違法行為を除いては外部から規制されることはなく、それ自体は間違いではないが、腐敗しやすいとも言える。
在野とは我々が住む日常空間だから、その規制は望ましくはない。しかし在野でも自由民主主義体制の意思決定の場所たる施設とその周辺の活動を規制することはやむを得ない。
例えば国会・首相官邸・議員会館・政党本部などを標的としたデモの規制(拡声器・音響機材・旗・プラカードの使用規制)入館者の個人情報(外国政府への勤務経験の有無、国籍など)の把握、入館者と政治家との接触記録の公開等については論じられるべきである。
また、在野の「体制の番人」が所属する業界が「保護産業」か、否かを確認しても良いだろう。保護産業の住人が腐敗しやすいのは自明であり、ただでさえ腐敗しやすい「在野の体制の番人」を加速度的に腐敗させるし、また、保護産業は外部からの干渉が困難だから活動の拠点になりやすい。
保護産業の解体を目指す規制改革は常に議論されているが、規制改革は単なるビジネスチャンスの拡大を意味するだけではなく自由民主主義体制の防御にも繋がるのである。
「リベラルの番人」に要注意
ある社会を崩壊させる要因として様々な「思想」が挙げられるが、筆者は「思想」だけではなく「思考」にも注目したい。
文章で読むと実に優れた「思想」も「思考」によっては社会を破壊する「力」にまで発展する。
防御がインフレ化し、攻撃と同じとなった「番人思考」はまさにそうであり、ここに右も左もない。戦後日本では右派の番人思考(国を守る、皇室を守る等)ばかり警戒されてきたが左派の番人思考への警戒は実に低調だった。
左派の番人思考への軽視がリベラルを劣化させ、およそリベラルとは言えない「リベラルの番人」を成立させてしまった。そしてこの「リベラルの番人」こそが今の日本の自由民主主義体制を破壊する危険性が最も高い勢力である。
新しい年を迎えたが筆者としてはこの「リベラルの番人」を注視していきたい。
高山 貴男(たかやま たかお)地方公務員