神戸教員いじめ事件:法令順守が難しい理由

物江 潤

写真AC

そういえば、あの事件は今どうなっているだろうかと気になり検索してみると次のような記事が見つかりました。

学校運営を弁護士ら支援 教員間暴行問題 法令順守へ神戸市教委が専門チーム(神戸新聞)

詳細はリンク先を読んでいただければと思いますが、要するに学校現場において法令順守の意識を浸透させることが必要だと神戸市教育委員会は考えているわけです。必然的に、現在の学校は法令順守の意識が不十分であると同委員会が認識していることになります。

学校は、法令順守の意識が徹底されやすいというイメージを持たれる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、原理原則的に言えば、日本の学校ほど法令順守を徹底することが難しい組織はないとさえ言えます。その理由を説明する前に、そもそも法令順守による統治(支配)とはどういったものなのかを見てみたいと思います。

正統的支配には三つの純粋型がある。換言すれば、支配の正当性の妥当は、原理的に次のようなものでありうる。すなわち、
1  合理的な性格のものであることがある。すなわち、制定された諸秩序の合法性と、これらの秩序によって支配の行使の任務を与えられた者の命令権の合法性とに対する、信仰にもとづいたものでありうる(合法的支配)。

(中略)制定規則による支配の場合には、合法的に制定された没主観的・非人格的な秩序と、この秩序によって定められた上司とに対して、上司の指令の形式的合法性の故に、またこの指令の範囲内において、服従がなされる。

(マックス・ウェーバー著 世良晃志郎訳「支配の諸類型(経済と社会)」創文社 、1970年)

「没主観的・非人格的」とあります。カリスマのような人間が主観的にルールを決めるのではなく、あらかじめ決めておいたルールに全員が従うということです。必然的に、個々の人格の違いや事情は無視(捨象)されますし、このルールは曖昧なものではなく、誰が見ても同じ意味に解せる客観的なものになります。

一方、教育法のなかでも特に重要な教育基本法には、教育の目的は「人格の完成」であると記されています。すると、目的は「人格の完成」だけど、「非人格的」な合法的支配(法令順守の徹底)をするということになりますが、果たしてこれは上手くいくのでしょうか。

生徒一人ひとりの個性・状況に応じ、それぞれに対する個別的な指導をなくして「人格の完成」は難しいはずですが、そうした指導は非人格的で画一的なルールを当てはめる合法的支配とは真逆のものでしょう。

つまり、そもそも日本の学校と合法的支配は相性が大変に悪いわけです。無理が通れば道理が引っ込むと言いますが、「人格の完成」か「法令順守の徹底」のどちらかを引っ込める必要がありそうです。

こうした話は机上の空論ではありません。「学校教育に法はなじまない」という意識が学校現場で根強いため、なかなか合法的支配が難しい実情があります。

文部科学省は、通知等を通じてこれまで複数回にわたり、出席停止制度の意義の理解や適正な運用を求めてきた。そして、一貫して、出席停止措置をより活用することを求めている。しかし、出席停止の措置件数だけを見る限り、現場がそれについてきていないといえる。(中略)一定の児童・生徒の問題行動により不利益を被っているのは、ほかでもなくそのほかの児童・生徒なのである。出席停止に関する理解を深めて適宜活用する方向に舵を切らなければ、学校教育法35条の規定は、いつになってもある種の「お飾り」で終わることになるであろう。

(坂田仰編著「改訂版 学校と法」放送大学教育振興会、2016年)

粛々と法(学校教育法35条)に従いましょうと何度も呼び掛けても、「学校現場と法はなじまない」という意識があるため「お飾り」になりがちなわけです。そして、法はなじまないとする意識の淵源を辿っていくと、「人格の完成」という巨大且つ曖昧な目的が見えてきます。

合法的支配ではなく、マックス・ウェーバーの主張する「カリスマ的支配」や「伝統的支配」で学校を統治するという選択肢が、もはや現代の学校において困難である以上、神戸市教育委員会が指摘するように合法的支配(法令順守の徹底)に移行するしかないでしょう。

また、拙稿『記述式延期をもたらした「あいまいな日本の教育」』でも指摘しましたが、人格の完成という目的は多くの問題を含んでいます。道理である「法令順守」を徹底し、無理である「人格の完成」は引っ込めるべきではないでしょうか。

物江 潤  学習塾代表・著述家
1985年福島県喜多方市生まれ。早大理工学部、東北電力株式会社、松下政経塾を経て明志学習塾を開業。著書に「ネトウヨとパヨク(新潮新書)」、「だから、2020年大学入試改革は失敗する(共栄書房)」など。