ゴーン氏が、保釈条件に違反して不法出国したことに関して、直後から、産経新聞や一部の検察OB弁護士などによる、保釈を許可した東京地裁の判断が誤りであったかのような批判が行われた。
1月13日付けの読売新聞は、《【独自】ゴーン被告の逃亡「数十億円の保釈金では防げない」…決定前に地検が反対意見》などと題する記事で、検察から保釈意見書の内容のリークを受けて、検察の反対意見が正しく、裁判所の保釈判断が誤っていたかのように論じている。今後の保釈の運用において、裁判所の保釈許可を牽制し、「人質司法」を一層強化しようとする意図が露わだ。
東京地検斎藤隆博次席検事が、1月9日、海外メディアも参加した定例会見でも、検察官は「逃亡のおそれ」と「罪証隠滅のおそれ」を理由に保釈に反対していたことを強調し、「逃亡のおそれがあるのに保釈が許可されたのだから、検察官も逃亡防止のための監視を行うべきだったのではないか」と質問されても、「検察官は保釈に反対していた」の一点張りだったようだ。
しかし、今回の保釈条件違反の出国の問題が裁判所の責任であるかのような論調は、一つ重要な点を見過ごしている。
「保釈には絶対に反対だった」と言うのであれば、検察は、次の質問にどう答えるのであろうか。
では一体、いつまでゴーン氏の身柄拘束を続けるべきと考えていたのか。
「(国外への)逃亡のおそれ」があるから保釈すべきではないというのであれば、そして、検察官は、保釈が許可されたら逃亡防止のための監視などは一切行わないし、それを行う立場にもない、というのであれば、その状況は、公判が始まっても、検察官の立証が終了しても、判決が言い渡されても、保釈すれば海外逃亡のおそれがある状況は全く変わらない。有罪無罪を問わず、判決が確定するまで、未決勾留を続けるべきということになる。
そして、その期間は、ゴーン氏が1月8日の記者会見で語ったように、検察官が示した立証方針によって、「2つの事件の審理を同時には行わない。金商法事件の裁判が終わってから、特別背任の裁判を一つ一つやっていく。」となると、一審の裁判だけで、今後少なくとも5年はかかるという状況だったことになる。その5年に加えて、控訴審で2~3年、上告審でさらに1~2年、つまり判決確定まで10年近くかかることになる。検察は、それだけの期間、ゴーン氏を保釈せず、拘置所内で身柄拘束しておくべきだったと言うのであろうか。
2018年11月19日に羽田空港で逮捕されるまで、日産・ルノー・三菱自動車の3社の会長を務めるゴーン氏は、カリスマ経営者として国際的にも高い評価を受けていた。検察は、そういう人物を、「推定無罪の原則」を無視して、10年近くも拘置所内で身柄拘束しておくべきだと、海外メディアや国際社会に向かって公言できるのであろうか。
問題の根本は、安倍首相もゴーン氏逃亡直後の財界関係者との会食で本音を漏らしたように「日産の社内で片づけるべき問題」を、検察が無理やり刑事事件に仕立て上げ、日産社内の「クーデター」に加担したことにある。
そのまま検察官の意見に従えば、事件の内容と比較して異常な「長期勾留」にならざるを得ない。「勾留による拘禁が不当に長くなったときは、裁判所は、~(中略)~決定を以て勾留を取り消し、又は保釈を許さなければならない。」とする刑訴法の規定(91条)からしても、裁判所が、検察官の意見を退けて保釈を認めたのは当然であり、ゴーン氏の保釈許可に対する批判は、全く的はずれだ。
無実を訴える外国人にとって絶望的な日本の刑事司法
経済事件であり、本来は社内で片づける問題であったゴーン氏の事件とは異なる「典型的な刑事事件」と言える殺人事件で、日本で逮捕・起訴された外国人が「絶望的な状況」に追い込まれることを示す一つの事例がある。
一審で無罪判決を受けて勾留が失効したのに、検察が控訴し、控訴審で逆転有罪判決が出て上告審で有罪が確定、その後、再審で無罪となった「東電OL殺人事件」だ。この事件で、ネパール人のゴビンダ氏は、15年もの間、冤罪で身柄を拘束された。
この事件では、東京地裁の一審無罪判決で、被告人のゴビンダ氏の勾留が一度失効し、不法滞在による国外強制退去の行政手続きが開始されることになった。しかし、検察は控訴し、「ネパールへの出国を認めて送還した後に逃亡されてしまうと、裁判審理や有罪確定時の刑の執行が事実上不可能になる」と主張して、裁判所に職権による再勾留を要請した。
当然のことであるが、刑事被告人には「無罪の推定」が働く。その被告人が勾留され、身柄を拘束されるのは、罪を犯したと疑う十分な理由があり、なおかつ、「逃亡の恐れ」又は「罪証隠滅の恐れ」がある、という事由が存在しているからだ。
一審で無罪判決を受けた場合には、無罪の推定が一層強く働くので、それまでの勾留は失効する。再勾留が認められるとすれば、一審の無罪判決に明白な誤りがあるとか、判決後に、有罪を決定づける新証拠が見つかったというような場合に限られる、というのが常識であろう。
ところが、検察は、裁判所にゴビンダ氏の再勾留を強く求めた。それは、「無期懲役を求刑した事件に対して一審で無罪判決が出て、そのまま引き下がるわけにはいかない」という検察の威信・面子にこだわる「組織の論理」によるものであろう。
「再勾留」で逆転有罪が“事実上決定”
控訴審が係属した東京高裁刑事第4部は、検察の要請を受けて、再勾留を認める決定を行った。弁護側は、異議申立てを行ったが、東京高裁刑事第5部は異議申立てを棄却して勾留を認めた。弁護側は、最高裁に特別抗告をしたが、最高裁は「一審無罪の場合でも、上級審裁判所が罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由があると判断できる場合は被告人を拘置できる」として3対2で特別抗告を棄却した。
重要なのは、ゴビンダ氏の勾留を認めたのが、控訴審が係属する高裁の裁判部である東京高裁刑事第4部だったことだ。つまり、その後に、控訴審の審理を行うことになる裁判部が、被告人の身柄拘束を続けるかどうかの判断に必要な「罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由」の有無について、自ら肯定する判断を行ったのである。そのために、外国人である被告人は、一審で無罪判決を受けたのに身柄拘束が継続され、母国に帰ることができない、という著しい人権侵害を受けることになった。
さらに決定的なのは、控訴審裁判部が再勾留を決定した時点で、ゴビンダ氏の逆転有罪は事実上決まっていたということだ。もし、控訴審判決で検察の控訴を棄却し、一審無罪判決を維持した場合、再勾留して一審無罪判決後も身柄拘束を続けたことが、結果的に無実の人間の身柄拘束を継続する「重大な人権侵害」だったことになる。それを自ら認めることになる控訴棄却・無罪の判決を、控訴審裁判所が行うことは極めて困難だったと言えよう。
ということは、東電OL殺人事件では、控訴審裁判部が、一審無罪判決後に、僅かな期間、一審の事件記録を読んだだけで再勾留を認めた段階で、事実上、控訴審での逆転有罪判決は確実になっていたということなのである。
ゴビンダ氏の事例にも表れた「外国人にとっての日本の刑事司法」は、知れば知るほど「深い闇」であり、絶望的なものと思えるであろう。
ゴーン氏は、経済犯罪で起訴された被告人であり、殺人事件の被告人だったゴビンダ氏とは異なる。しかし、「起訴した以上は、何が何でも有罪を獲得しようとする」検察官の姿勢は同じだ。検察の組織の面子、さらには、組織の存亡がかかっているという面で、ゴーン氏事件に対する検察側の有罪への執念は、むしろ、ゴビンダ氏の事件以上のものと言うべきかもしれない。
日本の刑事司法では、検察が有罪を確信して起訴した事件は99%以上が有罪となる、まさに検察が「正義」を独占する構造だ(拙著「検察の正義」ちくま新書:2008年)。その「検察の正義」に逆らって、起訴事実を否認して無罪を主張する者は、検察官が「罪証隠滅のおそれ」があるとして保釈に強硬に反対し、裁判所が保釈を認めず、被告人が「自白」するまで身柄拘束を続けるという「人質司法」がまかり通ってきた。
一方で、「検察の正義」に逆らわず罪を認める者の「逃亡のおそれ」に対しては、検察官は概して関心が薄かった(【実刑確定者の逃亡は「『人質司法』の裏返し」の問題 ~「保釈」容認の傾向に水を差してはならない】)。日本では、保釈された被告人に対しては、監視もほとんど行われず、諸外国の多くが導入しているGPS装着による位置確認が制度化されなかったのも、「罪証隠滅のおそれ」を重視する一方で、「逃亡のおそれ」を軽視してきた、これまでの検察姿勢によるところが大きい。
最近、「人質司法」への批判もあって、「罪証隠滅のおそれ」を安易に認めるべきではないとの最高裁判例も出て、否認事件での保釈率も上昇している。
キャロル夫人逮捕状取得・国際手配の「暴挙」
ゴーン氏の事件に関しても、検察は「罪証隠滅のおそれ」を理由に保釈に強く反対し、今回の海外逃亡後も、「罪証隠滅のおそれ」があったことを強調したが、結局、ゴーン氏の側で実際に罪証隠滅が行われていた事実は全くない。そして、検察は、今になってキャロル夫人の起訴前証人尋問で偽証があったなどとして逮捕状を取得し、国際手配するなどという常識外れの行為に及んでいる。
逮捕状は、本来、被疑者を逮捕するために請求し、発付されるものである。検察がキャロル夫人を逮捕したいというのであれば、密かに逮捕状を取得し、国際手配して、米国等への入国時に逮捕してもらえばよいのである。逮捕状取得を公表し、その中で、キャロル夫人の罪証隠滅の意図を一方的に強調するなどということは、凡そ検察が行うべきことではないし、そもそも、そのような意図を隠して逮捕状を請求し、その発付を受けたこと自体、裁判所から逮捕状を騙取したに等しい。
これまで、日本では、検察が裁判所から信頼されていたからこそ、本来、「刑事司法の正義」の中心となるべき裁判所が、「検察中心の正義」に事実上甘んじていた。しかし、今回、ゴーン氏の事件の中で検察が裁判所に対して行ったことや、勾留延長請求却下など検察の請求を認めなかった裁判所に関する検察幹部の発言(【「従軍記者」ならではの“値千金のドキュメント” ~ゴーン氏事件で「孤立化」を深める検察】)は、その信頼を決定的に損なうものだ。
今、日本の刑事司法は、「検察の正義」中心の構造を大きく変えなければならない時期に来ていると言えよう。