副題が「海洋文化、大陸型帝国、そして現代世界を作り出した両者の争い」(Maritime Culture, Continental Empires and the Conflict that made the Modern World)。
教授による「Seapower Sates」の定義は、その国家の成り立ちにより、海とそれを介した通商を生命線とする国々。そして本書は、そうした国々の海戦の歴史だけではなく、そうした「海洋国家」になるしか選択肢がなかった国々の戦略的選択が、いかにその国の文化、経済、政治等々と作用しあったかということを、包括的に俎上にあげて論じています。
ですから以前「米中関係の歴史を軸にして日米関係をみる」でとりあげたアメリカ海軍の戦略家、アルフレッド・セイヤー・マハンの研究に比して、より踏み込んだ分析といえるでしょう。
本書で論じられている「海洋国家」は古代ギリシャのアテネ、カルタゴ、ヴェネチア、16・17世紀のオランダ、そしてイギリス。そしてこれらの「海洋国家」との対象として論じられているのは、いろいろな制約から「海洋国家」として大国になれなかった古代ロードス島、ジェノア、ポルトガル、そして大陸型帝国として巨大な海軍の創生に力を注ぎながらも、「海洋国家」としての文化、経済、政治等々を受容できなかった古代ペルシア帝国、ローマ帝国、オットマン帝国、ロシア・ソビエト、アメリカ、中国です。
「航行の自由」という生命線
教授が本書の末尾で言うように、現在の世界は海を生命線としない大陸型帝国であるアメリカが、圧倒的な海軍力を有する一強状態。そこに中国が自国の近辺海域でくい下がっている。この中国の様子を教授が比較するのは帝政ロシアです。
あれだけ海軍の創生に力を入れたピョートル大帝のロシアでしたが、結局大帝の死後特筆すべきは遺産は、ペテルスブルグ防衛のクロンシュタット要塞だけだった。たしかに人民解放軍海軍は艦船よりも、南シナ海のサンゴ礁に数千ヘクタールに生コン注ぎ込んで、これを要塞化することに必死です。
アメリカ一強により、世界が「航行の自由」を甘受することで、世界規模の通商の発展と、世界経済の成長が引き起こされたわけですが、この状態が常態化していたため、今の人々はこれを当然とする平和ボケになっているというのが教授の主張。「航行の自由」が、かつては自国の発展には海しかなかった「海洋国家」が、相当以上の犠牲を払って手にしていたものだと教授は喚起しています。
「海洋国家」に不可欠な自由主義
また、健康体と引き金を引くだけのアタマがあれば事足りる陸上の兵士とはことなり、海軍は熟練を必要とする技術者や水兵が必要となり、その供給源である平民への参政権を付与することで民主制の嚆矢となった(古代アテネ)と指摘。「海洋国家」の実力主義社会は、土地という資産と、その相続に関わる血統・家柄を重視する封建的社会への挑戦となったと。リスク分散を目的とした株式会社制度や保険制度の導入(オランダ)という、自由主義社会を基盤としたイノヴェーションにも当然触れています。
「海洋国家」としての日本の将来
ランバート教授は、ヨーロッパの海洋史に関しては、戦史から芸術にわたるおそろしいまでの知識を披露していますが、日本に関してはあまり見識がないようで、キングス・カレッジのご同僚、アレッシオ・パタラーノ博士の研究に依存しています。
それでも海上自衛隊の優秀さには一目を置いているよう。この本のプロモーションで出演していたポッドキャストでは、海上自衛隊の潜水艦部隊の優秀さに言及しています。
このパタラーノ博士は海上自衛隊幹部学校の客員講師。海上自衛隊がアジアの海軍のなかではユニークな「伝統(Heritage)、遺産(Legacy)、そして経験(Experience)」を有していると評価しています。
ランバート教授が力説するように、海洋国家は朝夕にしてならず、海を生命線とする国民の共通認識が不可欠で、それは歴史に基づいた伝統と、それと相互作用して発展する文化・芸術が不可欠なのです。日本の「海洋国家」としての伝統は、長崎の海軍伝習所以来、200年未満ですが(倭寇や村上水軍まで遡るのはちょっと無理があるでしょう)、それ以後の豊かな歴史は国民の財産なのだなと認識しました。
たしかに海自潜水艦隊の優秀さは、世界が一目を置く日本の戦術的優位性ですが、日本経済の生命線である「航行の自由」を維持するためには水上艦の活躍が欠かせないわけで、それを思うと今回中東海域に派遣された護衛艦たかなみの使命は重いものがあります。
今後の日本の興亡は、財政上の問題としては、高齢化社会の進展とともに重圧となる社会保障費の巨大化と、海の生命線を維持するための防衛費のせめぎ合いとなり、社会的な側面においては、職場やさまざまな面における年功序列制度や現代の門閥主義である学歴・就職先などのランキング価値観などという社会の内向化・化石化と、常に目を世界に向ける勇気とイノベーションをささえる若手中心の現場の主張との間における摩擦の中に見出されれていくのでしょう。
おまけ
今回の読書と、その著者周辺のリサーチで得た豆知識。
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イギリス海軍の伝統はその艦艇の命名方法にもある。トラファルガーに参加した艦船と、ユトランド海戦のそれは同名のものが多い(日本も同様)。特に旗艦クラスの艦船に国家元首に由来する名を与えるのは古来からの伝統で、目下来年の就役を前に艦載機訓練中の空母HMS Queen Elizabethは第一次大戦のドレッドノート級の戦艦の名とエンブレムを継承している。同クラス空母の二番艦はHMS Prince of Walesと命名されているが、これには教授はオカンムリ。「君主と同等ではなくその皇太子のタイトルでは不釣り合い。それにあの名前は呪われている!」ビスマルクを取り逃し、マレー沖で散った先代の恥辱はそうすぐには雪がれないようで。
- 日本帝国海軍の水上特攻には先例があった。第一次世界大戦の終結間際、ユトランド海戦以来、港に閉じ込められて切歯扼腕のドイツ海軍は、全滅覚悟の最後の特攻でテームズ川に突入し、ロンドン目指して遡上、玉砕する計画を立てたが、それに感づいた水兵たちの脱走があいつぎ、ついには反乱が起こり、これが火付け役となって皇帝閣下のオランダ逃亡、帝国壊滅、敗戦の引き金になった。「乾坤一擲の大勝負」というのは大陸型国家の考え。海洋国家の弱点は、自国だけでは大陸型帝国に対して決してノックアウト・パンチを打てないことなのだ。