必要な知識や情報がネットで得られる今でも、大学進学がムダではない理由

こんにちは。黒坂岳央(くろさかたけを)です。
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昨今、SNS上ではインフルエンサーによる「大学はムダ」という主張が見られます。しかし、筆者は大学進学がムダとは思いません。これは

「かけがえのない友人を持てる」
「勉強に集中できる」

といった抽象的な理由によるものではなく、経済的合理性が存在するという意味合いでの主張です。

4年間の時間と労力、学生の間はキャリアが中断する機会ロス、学費などを勘案すると「大学のコスト」は国内の大学に通う場合においても、トータルで1,000万円規模のオーダーになると感じます。そこを踏まえても「コストに見合う価値を得られる」と筆者は感じるのです。その根拠をお話します。

大学では労働市場における「シグナル」を獲得する

「目的なき進学」ほど無意味なものはありません。大学は単なる職業訓練校と看做す人は少なくないですが、大卒の資格から大学のコスト以上の市場価値を得られない場合は「コスト>リターン」という構図になるでしょう。筆者は決して「大学進学」におけるすべてのケースを肯定するつもりはありません。

たとえば4年間を漫然と過ごし「Fランク大学」を出て獲得できるリターンは、決してコストを超えることはない感じます。このような場合においては大学にいかず、中卒・高卒で4年ないし7年分労働をした方が、賃金の面でメリットを得ることになります。

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しかし、中堅以上の大学を出るなら、大学進学そのものの意味を帯びることになります。2020年の時代においても、大学は依然として労働市場における「シグナル」として機能しています。これは企業の採用担当者にとって合理性があるためです。

募集数を大きく上回る応募をフィルタリングする上で「学歴」は求める人材をふるいにかけるフィルタリングとして機能します。すべての応募者と面接をし、企業で働く上での知的能力を測るのはコスト高で割に合いません。大学というシグナルを頼りに採用を選定するプロセスを合理化するわけですから、コストをかけてでも、大卒になることで「フィルタリング対象者としての地位を獲得すること」は、労働市場で生存するための戦略としては極めて合理的です。

日本における大学進学率は5割を超え、全入時代どころか定員割れの時代となっており、米国では7割を超えています。労働市場は大卒者の割合が多いことが前提となっています。少なくとも日米の2国における労働市場では、依然として「大卒」というシグナルは有効に機能していることからも、東証一部上場規模の企業への入社を目指すなら、大卒獲得には合理的メリットが存在します。

また、厚生労働省の平成29年賃金構造基本統計調査結果によれば、大卒と高卒の平均的な生涯年収は3,600万円以上の差が出るというデータがあります。この金額は、大学進学のコストをペイできるインパクトがあります。

大学の真の価値は「ストック」としての知識を得ること

「必要な情報は都度、仕事の中で学べば良い」という主張をする人は少なくありません。確かにそれは理にかなった話です。いまや、情報やビジネスの変化が早すぎて、大学に入学した時に学んだものが卒業までの4年間で陳腐化するケースもありえます。

たとえば英語という語学を例に上げると、英語力を活かしてお金を稼ぐ有効な手段は刻一刻と変化しています。昔はフリーの立場で英語で稼ぐ話は「企業依頼の翻訳・通訳」くらいしかありませんでした。しかし、昨今ではビジネスでYouTubeというプラットフォームで動画を活用することが活況であり、「英語の字幕を付ける」「国内の動画を海外向けに転換する」という需要が存在します。このようなビジネス需要は時代の流れで変わりますから、大学でゆっくり学ぶ対象としては適切ではありません。

しかし、大学で学問を学ぶ真の価値は「ストック」としての体系化された知識を、集中的に学ぶことにあります。この事例で言えば「自然言語としての英語力」や「英語を軸とした異文化交流、ディスカッション」などの体験です。こうした知識は普遍のストックと看做すことができ、ビジネス現場で刻一刻と変化していく先端の需要はフローと捉えることができます。

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フローの正当性を判断するには、ストックとして蓄積した体系的な知識が必須です。フローの知識ばかりを追い求めても、その真価を判断するにはストックとしての知恵が必要ですから、それを4年間集中的に、多面的な学問を経て蓄積することには独学では得られない意義があると感じます。

大学は知識の総合デパート

世の中には無料で学べる有効なコンテンツがたくさんあります。ブログでもYouTubeでもツイッターでも、その気になればどこからでもなんでも学べます。

しかし、ネットからもたらされる知識というのは、発信者の都合で往々にして歪められています。たとえば資産運用の世界について言えば、株式投資家は「株こそせよ」と主張し、不動産投資家は「不動産こそが良い」と言うでしょう。どの主張も正しいと思うのですが、自分自身にとって真に有効なものがどれかを判断するには、ファイナンスの体系化された知識や、合理的な計数管理を行う頭の使い方ができる力を持つ必要があります。

その人の価値観によっては、「投資が有効なのは分かった。だが、自分はリターンもリスクもいらない」というどの資産運用家の主張にも乗らないケースすらあるかもしれません(人間心理は多様であるため、資本主義経済的な合理性から降りる人もいるでしょう)。

筆者は大学進学で「これを得られてよかった」という明確なものは、正直あまりありません。英語力は独学で身につけましたし、米国の大学で会計学を専攻したものの、その多くはやはり自身で学んだものがほとんどです。

しかし、講義で履修した経済学、心理学、倫理学といった直接的に労働市場の価値に直結しなかった多面的な教養から、頭の使い方や思考力を養われた実感があります。心理学は専門ではないものの、履修した講義が大変面白かったのでマーケティング分野のコピーライティングにのめり込み、それが現在のビジネスの収益を上げることにつながっています。

軽い気持ちで受講した大学の講義が、10数年の時を経て息を吹き返し、そこから思わぬ副産物を生み出したと感じます。これは必要なことだけを必要なだけ、労力を投下して獲得する「独学」だけでは得られない成果です。

結論的には、大学は価値があると思います。しかし、それには条件があります。「体系化されたストックとしての知識や労働市場における有効なシグナルを獲得し、自らの知的好奇心と探究心に惹かれるままに学問にコミットした」くらいの活動は前提として必要なのは言うまでもありません。

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ビジネスジャーナリスト
シカゴの大学へ留学し会計学を学ぶ。大学卒業後、ブルームバーグLP、セブン&アイ、コカ・コーラボトラーズジャパン勤務を経て独立。フルーツギフトのビジネスに乗り出し、「高級フルーツギフト水菓子 肥後庵」を運営。経営者や医師などエグゼクティブの顧客にも利用されている。本業の傍ら、ビジネスジャーナリストとしても情報発信中。