「国会は何故おもしろくないのか」秘書40年の視点(下)

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民主党政権が出来た時にいくらか国会の議論が変わるのではないかと期待したことがあった。

が、やはり政府側に立った民主党の大臣たちは、おしなべて官僚答弁に終始しし始めたことに失望したことは忘れられない。その時に政府に執拗に説明責任を求めたのは野党となった自民党だったが、今にして思えば皮肉な話である。

民主党政権でも変えられなかった政治のジレンマ

国会改革に関する意欲を語る小沢一郎・民主党幹事長(当時、党サイトより)

あの頃、小沢一郎氏が形式的に政調を廃止し、事務次官会議も開かせずに、与党議員が直接官僚と個々に接することすら禁じたことがあったが、イギリス流の議院内閣制度を導入して勢い政治主導を実現しようとしたのは画期的なことだった。

しかし、政治側にそれだけの能力がなく、霞ヶ関が機能不全に陥りかけたこは記憶に新しい。国会答弁も官僚にさせてはならないと政府委員の答弁を最小限にしようとした時期もあったが、今では完全に形骸化してしまった。

そして、相変わらず国会の議論は変化なく行われている。日本的な民主主義の通過儀礼、消化試合が続いているのだ。最終的に国会で調整出来ない時は強行採決。どんなに揉めているように見えていても、いずれにしても大半の案件はつつがなく処理されて行く。

ということは、この仕組みが続く限り、国会の議論はなかなか生き生きしたものにはならないということなのである。

さらに付け加えれば、政策に力を入れても選挙にはあまり役に立たない。国民の目線に合わせるとはひたすら選挙区を歩くことであり、実績のない頃の政治家は政治活動よりも選挙運動に明け暮れて、政策の勉強との時間配分が難しくなる。スタッフ不足、情報不足の中でなかなかいい提案型の質問を作成なんか出来ないだろうなと率直に思う。それが政治側のジレンマでもある。

国会が何故面白くないのか。何も面白くある必要はないけれど、中身のあるものであって欲しい。しかし国会が消化試合である限り、制度的に構造的に難しいということを指摘せざるを得ないのだ。

衆議院本会議(官邸サイトより)

いつまで無責任構造を見せつけられるのか

国会改革、そもそも国会は何のためにあるのか。そこにしっかりと手を入れなくては何も変わらないと思い続けている。国会の空洞化、民主主義の危機が毎回叫ばれるが、行政国家日本はそうして成り立って来たのである。政治すなわち立法機能が、行政に対してもっと独自の政策提案能力を身につけることが出来ない限り変わり得ない。それが私の答えだ。何よりも党首討論すら頻繁に開かれることが出来ないのだから、いかんともしがたい。それが日本政治の現在であると残念ながら申し上げている。

コロナウイルスの猛威が日本列島を覆い、もはや水際作戦に失敗し、市中感染の段階に入ってしまったのだから、非常事態だと認識をして、国会は政治休戦すべきで、与野党は一致協力して事態の改善に立ち向かうべきなのだと痛感する日々だ。

それでも与野党の不毛の国会議論が続くのかと、日本の政治行政の本質的な無責任構造を見せつけられる歴史を刻む一日一日にならないで欲しいと心から願うばかりだ。