世界で唯一スペインでしか生産されていないワインがある。アンダルシア地方のヘレス・デ・フロンテラとその周辺で生産されている「ビノ・デ・ヘレス(Vino de Jeréz)」と呼ばれているワインだ。ビノ・デ・ヘレスと言ってもピンと来ない人もいるだろう。その別名「シェリー(Sherry)」と言えば誰でも知っている。
シェリーを愛飲した人物には劇作家ウイリアム・シェークスピア、トラファルガーの海戦を勝利に導いたネルソン提督、ペニシリンを発見した細菌学者アレクサンダー・フレミングといった人物がいる。フレミングは現地のあるシェリー生産業者を訪問した際にシェリーの素晴らしさを称えて「ペニシリンは病気を治す。しかし、シェリーは死人を蘇させる」と語ったのはスペインでは良く知られた逸話だ。
現在もシェリーの全生産量の30%近くは英国に輸出されているということは、スペイン国内で35%が消費されているのと比べてもあたかも英国で生産されているかのような印象を与える。その次に需要が多い市場は米国だ。
尚、英国への輸出が始まったのは12世紀だとされている。16世紀からは英国でのシェリーの需要は大々的に高まり、19世紀になると英国人がシェリー産地に資本投資して生産を開始するようになった。だから現在もシェリーの生産業者の社名には英国をルーツとするものがある。例えば、Sandeman、Garvey、Humbertといった社名だ。
それほどの世界的名声をもっているシェリーではあるが、1980年代に入ってからはシェリーの消費は相対的に落ちている。ファン・ロドリゲスとアウレア・ビエイラの二人の教授の研究によると、1982年から2012年の間での生産量の推移は、1982年に1億2900万リットルであったのが,2012年には4100万リットルまで減少しているのである。即ち、30年間で68%も生産量が減少したというのだ。(参照:elpais.com)
更に、原産地呼称委員会の報告によると、昨年の生産量は3060万リットルということであった。
同委員会によると、この生産量の減少は固定客の減少によるものだとしている。即ち、シェリーの生産量に占める愛飲家が嘗て90%いたのが、現在は60%まで落ちているということだそうだ。
更に、需要が下降している理由として、以下のようなことが指摘される。
シェリーを代表する「フィノ(Fino)」「マンサニーリャ(Manzanilla)」といったものへの需要が減って、若者の間で幾分スイートな「クリーム(Cream)」などへの需要が伸びている。が、それはシェリー全体から見てもその比率は小さい。よって、シェリーそのものの需要の維持及び拡大にはなっていない。最近はマンサニーリャを7UPと割って飲むのがスペインでヒットしているが、これも全体の需要から見れば消費は限定されている。
シェリーの価格は安くない。一般的にリオッハのクリアンサの価格帯に匹敵している。理由は生産工程で熟成するのに長期間をかけるからである。熟成樽を3段にも4段にも積んで上から下に移して行って一番下の樽から取り出してボトルに詰めるというソレラシステムを採用している影響でシェリー酒と呼ばれるまでに至るには長い期間が必要で、それが生産コストに影響している。結局、安価には生産できないのである。
ところが、その規定を破ってスーパーで非常に安価な価格で販売されるようになっている。その為には何をするかと言えば、規定された熟成期間を守らずに市場に出しているということなのである。それは勿論OEMでの生産だ。このような販売も本来のシェリーの需要の維持を阻む要因となっている。
1887年創業の生産業者セサル・フロリドのオーナーの説明によると、同社が存在している都市でも「嘗て83社あったのが、今では3社しか存続していない」と語っていた。
英国がEUから離脱を決めた。英国での輸入関税がどのようになるか今後の不安のひとつだ。
生産業者の方でも問題がある。生産工程上の規定に捉われ過ぎて新しい取り組みに積極性が欠けるということである。だから、シェリーと呼称されるために、その生産工程の枠から外れて生産すると正式にシェリーとは呼べなくなる。となると、それが名声を壊して販売に影響して来ると生産業者は考えて相変わらず生産コストのかかる生産工程を維持しているのである。また新しいタイプのワインの生産にも積極性が欠ける。
プラス面としては、最近はスペインを代表するミッシュランにランキングされているレストランがシェリーを積極的に料理に使い始めている。毎年世界のベスト・レストランのトップの一つにランキングされている「エル・セリェール・デ・カン・ロカ(El Celler de Can Roca)」もシェリーの価値を高く評価して料理につかっている。
しかし、現状のまま革新もなく従来のシェリーを生産して行く限り、その需要はさらに後退して行くのは目に見えている。