今、北米ではSocial Distancing という言葉が至る所にあふれています。「社会的離隔」という意味で伝染病の蔓延を阻止する意味です。後述しますが、Social Distance(社会的距離)という社会学で出てくるであろう言葉とは意味が違うのですが、語源は同じだと考えています。私も初め、なぜ、「ing」がつくのだろうと思って調べたのですが、なるほど、納得しました。
北米では新型肺炎対策としてSocial Distancing をおおよそ1.5メートルから2メートル取るようにとされています。そのため、受付のところには「これ以上近寄らないで」というテープが貼ってあるし、スーパーのレジのところには1.5メートル間隔程度に床にテープが貼ってあり、その距離を空けて並ぶようにという仕組みになっています。
スーパーなどは店舗内に入れる人数の入場制限をしていますので店前には長蛇の列があることも見受けられるのですが、実際にはSocial Distancingを取っているので人数はそうでもないという感じでしょうか?
今は人の心がやや荒みがちで知らない人同士の関係が急速に冷却しています。ついこの前までは知らない人同士が同じエレベーターに乗り合わせても笑顔で挨拶することも普通でしたが、今は双方が最も距離を取れるように隅に張り付いているような状態です。
私が今、予見しているのは「Social Distancing (社会的離隔)が生み出すSocial Distance(社会的距離)が広がる社会」です。
Social Distanceとは世の中の人が無数のグループ化を形成している中でそのグループ間の距離と考えればわかりやすいと思います。例えば趣味の団体、仲良しグループ、社内の派閥といった仲間同士と他の同様なグループとの距離感ということになります。距離感が近いと仲良しだし、その逆はいがみ合う関係です。「僕ら(私たち)(=We)」と「彼ら(=They)」という表現を日常使っていると思います。これがグループの関係を意味します。
この距離感は今回の新型肺炎で国家が国境を閉めたことでSocial Distanceが長くなったとも考えられます。欧州のシェンゲン協定はEU加盟国内での人の行き来が自由であることを売りにしました。今、多くの国がその国境を封鎖していますが、この傾向は今に始まったわけではありません。
英国がEUを離脱したのは難民が無制限に拡散し、社会コントロールができなくなることを恐れたことが背景です。同様に欧州大陸の各国で保守派(場合により極右派)が議席を伸ばしているのも双方の距離感を保つという姿勢にほかなりません。
トランプ大統領がいろいろな国に貿易や通商条件でいちゃもんをつけ、条件改定をしているのは双方の距離感の見直しであります。日本が中国や韓国との外交上の距離が常に微妙であるのもその一つであります。
一方、一般社会はFace BookなどSNSの普及でSocial Distanceが近くなったと「錯覚」してきました。錯覚というのはSNSのツールを用いて積極的に参加する側とのぞき見趣味のグループに明白に別れていることがあまり明白になってこなかったからです。私の予想では今後、SNSによるグループ形成は今までより高い壁ができる傾向にあるとみています。
近年の社会行動ではコト消費という名のリアルSNS(オフ会)的な集団形成を正当化してきました。応援しているチームの試合を観戦に行く、気に入った歌手のコンサートに行く…そしてそれらの人はそれぞれが個人であるのに参加する「共感」を通じて「繋がっている」という気持ちを持ち、「私は一人ではない」と感じ、心地よく酔いしれるのであります。
私は新型肺炎を克服したのち、社会がどのように変化するか、考えています。果たして今までのようなより近いSocial Distanceが維持されるのでしょうか、全く違うSocietyが生まれるのでしょうか?大きな過渡期にあるように感じるのです。
今回、私は人の「我儘さ」を見たと思っています。それは「共感」や「同じ空気をシェアする」といった薄弱な関係から次のステップに進化するともいえます。一つひとつのSocialは今までに比べ小さい母集団になるもののより近い信頼関係に基づいた強固なSocialができるのではないと考えています。あえて造語を作るならCored Socializing (芯ある社会化)であります。
今回、私たちが経験している現実は人々の価値観や行動規範に少なからず影響を与えることになるような気がしてなりません。
では今日はこのぐらいで。
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2020年3月26日の記事より転載させていただきました。