「イスラエル国防軍は世界の軍隊で唯一、上官への反論が許されている」。本書『タルピオット:イスラエル式エリート養成プログラム』を手に取った時に、かつて自衛隊関係者にこう言われたことを思い出した。本書は、イスラエル国防軍のエリート部隊タルピオットに焦点を当て、スタートアップ・ネイションことイスラエルで生み出されるイノベーションの秘密に迫った良書である。
本書は経営学者であり数々の企業で社外取締役を務める石倉洋子氏、元在京イスラエル大使館員で現在はコンサルタントとして活躍するナアマ・ルベンチック氏、そしてタルピオット出身の起業家トメル・シュスマン氏による共著である。これまでジャーナリスト、コンサルタント、商社OBなどがイスラエル軍とイノベーションの関係を論じた類似本を出版している。しかし、経営学者とイスラエル軍出身者がこのテーマを論じるのは本書が初めてだ。
また、現地取材によるイスラエル国防軍出身者たちの証言は著者の主張を支え、内容はより深みを増し、説得力に富む。特に第3章では、スタートアップを取り巻くエコシステム(生態系)として、兵役を通じたネットワーク、起業家の輩出と失敗者の受入れ、政府の役割について詳しく解説されている。
インタビューの中で登場するシュライヤー氏は、かつてのタルピオット教官から事業への参加を要請された。14年ぶりの、突然かかってきた電話によって、である。まさに、タルピオットの絆で結ばれた、性別と年齢を越えた隊員同士の強固な関係を示すエピソードだ。
起業というとすぐに思い浮かぶのがシリコンバレーだが、イスラエルの起業事情は人材の年齢や特質、ビジネス分野で異なる点があると言う。その上で、イスラエルの起業家と如何にしてビジネスをしてくべきか、本書の後半では具体的なアドバイスが続く。
「正しい決定よりも早い決定」という著者の言葉が示すとおり、日本企業の意思決定の遅さとの間に生まれるギャップは何度も強調される。ここまでであれば類似本でも指摘されるところだが、インタビューしたイスラエル人起業家からは、それでも日本企業とは一度信頼関係を築けば長いスパンでビジネスが出来る、との評価を引き出す。
重要なのは、時間へのコスト感覚に違いがあることを前提に、日本側の事情を丁寧に説明し、どこまで進み何が課題であるかをしっかりと相手に理解してもらうことが大事なのだと言う。著者曰く「答えが分からないまま走り出す必要がある」からこそ、相手に無用な心配とストレスを与えないよう十分に意思疎通せよ、ということでもある。日本人の伝統芸である根回しを徹底すれば、決して無理な注文ではないだろう。
軍隊におけるイスラエル式エリート養成プログラムのメリットが紹介されている一方、その弊害やデメリットについての記述はない。本当にイスラエル起業家はバラ色の模範であり、かつ提携対象なのか。
イスラエル人の議論を歓迎する姿勢は起業文化に好影響を与えているとしても、政治に目を向ければ建国以来少数政党が乱立し、連立政権が常態化。政治の混乱で、この1年間で総選挙が3回実施されている始末である。
また、エルサレムを首都と強硬に主張しているように、しばしば国際社会と真っ向から対立する。BDS(Boycott, Divestment, and Sanctions)という、いわゆるイスラエルへのボイコット行動を多くの国で呼びかけられている状況は異常と言う他ない。
本書では軍隊での上官に対する反論は好意的に評価されているが、イスラエル人の時に自己中心的、好戦的ともとられる姿勢は、対外関係で多くの弊害を生んでもいるのだ。
イスラエルの各起業家が明確なビジョンを雄弁に語る一方で、立ち上げた事業を途中で次々に売却するビジネス手法はどうだろうか。トヨタ、ソニーといった有名企業をゼロからグローバル企業へと育て上げたとの自負を持つ日本人には、違和感を持つ人もいると思う。イスラエルの起業環境が理想的であることは論を待たないが、同時にイスラエルを長期的なスパンで批判的に見る必要はないのだろうか。
ユダヤ系オーストリア人の著名な経営学者ピーター・ドラッガーは「全ての資源は枯渇する。枯渇しない唯一の資源は人間の才能である」と喝破した。チャレンジ精神旺盛なイスラエル起業家と、失敗を恐れ一歩前に踏み出せない日本人。この対比が本書では何度も出てくるが、この似て非なる両国にも共通項はある。
資源を持たない日本とイスラエルは、共にその人材に磨きをかけて類い希な経済成長を達成した。日本経済の課題はイノベーションであり、その鍵はイスラエルにある。イスラエル起業家から何を学ぶべきか、どのように付き合っていけば良いのか。その指南書が、まさに『タルピオット:イスラエル式エリート養成プログラム』なのである。
小林 武史 国会議員秘書