新型コロナは「人と死者」の関係断つ

人は生まれた以上、必ず「死」の時を迎える。健康体を誇った人も生来病持ちで脆弱だった人もその点では公平だ。早く死ぬか、100歳の大台まで生きるかは自身では決められない点でもやはり平等だ。

▲ウィーン市内のカトリック教会の風景(2020年4月20日、撮影)

▲ウィーン市内のカトリック教会の風景(2020年4月20日、撮影)

そして公平で平等の「死」を迎えた人を彼岸の世界に送り出す役割は生きている家族、遺族関係者が担う。「千の風になって」の歌詞にもあるように、死者は本来、墓場にはいない。しかし、人は死者を彼岸の世界に無事送り出すために葬儀を始める。

その葬儀(独Trauerritual)には、社会・地域で長い歴史を通じて培われた文化的内容が刻印されている。死者は厳粛な葬儀の洗礼を受けて旅立つ。しかし、中国武漢市で発生した新型コロナウイルスは新しい「死」を生み出したわけではないが、「死」を迎えた人と生きて送る人との別れの時を奪い取ってしまった。

新型コロナは感染病だから、遺族関係者は亡くなった家人との一切のコンタクトが厳禁される。不可視の新型コロナウイルスの場合、妥協を許さないほど非常に厳格に行われている。新型コロナ患者は重症化した場合、集中治療室で人工呼吸器のお世話になる。不幸にも亡くなった患者は、家族、友人、知人に「さようなら」をいう時すら与えられず、素早く火葬され、埋葬されていく。

人間社会では亡くなった人との別れ方に関して、歴史を通じて一定の儀式が編み出されてきた。一周忌、三回忌には特別の儀式をし、亡くなった人を思い出し、13回忌を過ぎる頃、遺族は死者と別れの時を迎える(33回忌まで儀式を行うところもある)。仏教では、遺族関係者は死んだ家人が成仏するまで責任を果たす。

しかし、中国発の新型コロナは遺族関係者に、葬儀文化を無視するよう強いる。人の情を顧みない恐ろしさを持っている。新型コロナは、生きている人と亡くなった人の間にはソーシャルディスタンスのように、一定の距離を置くよう強要する。新型コロナは亡くなった人がもともと存在していなかったように振舞うことを遺族関係者に強いるのだ。それほど酷な業はないだろう。

新型コロナが欧州に広がっていた時、イタリア北部ロンバルディアで多くの人々が毎日亡くなった。寄り添って祈る時間は遺族側に与えられないし、遺体を埋葬することすら許されなくなった。ミラノ市近郊の小都市ベルガモ市では連日、死者が出、軍が動員されるほど、次から次と遺体が運ばれ、埋葬されたり、他の州に運ばれた。

ベルガモの病院では人工呼吸器の数が限られていたこともあって、医師は誰に人工呼吸器を装着するか、しないかを決定しなければならなかった。医師にとって厳しい選択を強いられたわけだ。生死の選択権を委ねられた若い医師たちは苦しむ。特には欝に陥る。

人種のるつぼといわれる米ニューヨークでは遺体を埋葬する場所もないので大きな広場に遺体を並べて埋葬する光景が見られた。世界の富みを誇る米国でも遺体を伝統的なプロセスで葬ることができなくなった。

デンマーク王子のハムレットが嘆いたように、彼岸の世界から戻ってきたものは誰もいない。だから、死んだ人が「彼岸への儀式」もなく葬られた場合、どのような思いを持つだろうか。一方、遺族は亡くなった家人に対してどのような事情があるとしても無念の思いが残る。

オーストリア代表紙「プレッセ」科学欄(4月25日付)で、「死は普通見られる出来事だが、不可視だ」という見出しで、「新型コロナはウィルスで人を殺すだけではなく、残された遺族関係者には心的外傷後ストレス障害(PTSD)を与える」と述べている。PTSDはベトナム戦争やイラク戦争帰りの米軍兵士によく見られたが、新型コロナの場合にも遺族が死者との関係を断ち切られることで、消すことが出来ない精神的ダメージを受けるというのだ。

ちなみに、「無意識の世界」を探求し、近代の精神分析学の道を開いたジークムント・フロイト(1856~1939年)は愛娘ソフィーを伝染病のスペイン風邪で亡くしている。その時の体験、苦悩を後日、「運命の、意味のない野蛮な行為」と評している。

愛する人、家族と最後の別れを告げることが出来なかったという後悔と痛みは、遺族側に生涯、消すことが出来ない刻印を残す。中国武漢発の新型コロナが「悪魔のような存在」といわれる所以でもある。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2020年4月29日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。