1.医療従事者の置かれた現状
改めて、コロナ問題に対する各国の対応を振り返ってみますと、2003年のSARSコロナウィルス発生以降、さらには2012年のMARSコロナウィルス発生以降、パンデミック対策に国を挙げて取り組んできた国々では、パンデミック対策を実効的に行うための法律を作り、それを戦略立案・遂行するための国家機関も設け、専門人材も配置し、権限・予算も付与しています。
また、有事の際に、パンデミック対策戦略部門と主な医療機関との間で、効率的かつ迅速に感染検査や適切な医療サービスを展開できるように準備を重ねるとともに、医療従事者に対しても、十分な医療物資を供給し、可能な限り安全な環境を整備するなどの準備も行ってきました。
また、パンデミックにおいては、情報収集と情報処理(IT、デジタル)、及びそれに基づく迅速な意思決定と執行が圧倒的に重要となりますが、この部門に専門家を配置し、その備えも行っていました。
おそらく彼らは、パンデミック対応を誤ってしまうと、国家と国民に対し、とてつもなく深刻なダメージ与えることになる、つまり、これは国家と感染症との戦争である、との共通理解のもとに、国家の総力を結集して、パンデミックへの準備と対策を進めていったのではないかと推察されます。
他方、これらの国々と比べると、日本政府内では、パンデミックが国家と感染症との戦争であるとの危機意識は共有されず、よって、国のパンデミック対策の司令塔となる国家機関も設置されず、予算の確保や専門人材の配置も不十分であるうえに、医療機関との連携、医療従事者へのトレーニングや感染防止対策、医療物資の確保、検査体制の整備、情報収集の体制整備なども不十分でした。
(ただし、このパンデミック対策を本格的に行うためには、政府内に新たな組織を新設したり、予算、専門人員を確保するなど、極めて大きな政治的エネルギーが必要とされます。おそらく政府内にはこのような危機意識を持っていた方もいらっしゃると思いますが、多くの国民の間でパンデミックの恐ろしさに対する危機意識が醸成されていない中で、政府として推進することが難しかったという事情も斟酌すべきかと思います。)
このように、政府のパンデミック対策が十分ではなかった結果、いま、日本国内の多くの医療従事者には、大きなしわ寄せがきています。
具体的には
①マスクや防護服など感染防止のための医療防具も十分に与えられない
②院内医療従事者や業者、患者へのPCR検査、抗体検査などのサーベランスも十分に行えない結果、誰が感染者であるか分からない状況の中で働かざるを得ない
③そして自宅へも満足に帰れない、たとえ帰っても家族と同じ部屋で過ごすことすらできない
④また、自分のみならず家族も不当な差別や偏見に苦しまざるを得ない
⑤危険手当として十分な額の支給もされない
といった過酷な状況に追い込まれているのです。
国家間の武力衝突の際に、国民のために、戦場で命をかけて戦ってくれるのは兵士ですが、パンデミックとの戦争で、戦場に送り込まれ、命を懸けて国民のために戦ってくれるのは医療従事者です。今の多くの日本の医療従事者は、武器も十分に与えられず、目隠しをされたまま、目に見えない恐ろしい敵と戦う戦場に送り込まれ、孤独な戦いを強いられているとも言えます。
医療従事者は、目の前の患者の命を救うことに全力捧げ、自らの置かれた境遇に対する不満などは表には出さす、心に押しとどめようとするという傾向があります。しかしこのような状態がいつまでも続く訳ではありません。彼らの身を削った献身的な努力にいつまでも甘えるわけにはいかないということを我々は銘記する必要があると思います。
2.医療機関の迎える経営危機
5月10日に、全国の医療機関において、4月分の診療報酬請求額の確定値が出ますが、おそらく多くの医療機関の診療報酬額は前年を大きく下回っているものと予想されます。
全国医学部長病院長会議の最新のデータによれば、全国45の国立大学病院の令和2年度の減収予想額は2219億円で前年比約2割減、1施設当たりでは、約40億円の減収を予想しています。
4月8日には、厚労省において、コロナ診療にかかる診療報酬点数の加算が決定され、4月30日には、新型コロナウィルス感染症緊急包括支援交付金(1490億円)を創設するための補正予算が成立しました。政府からは、このような医療機関の収入増につながる政策も矢継ぎ早に打ち出されていますが、それだけでは全国の医療機関が真に必要とする金額には到底届きません。
医療機関に対する特段の公的な財政措置が今後実施されなければ、4月分の診療報酬分が支払われる6月以降、資金繰りは、日ごとに厳しくなり、物品購入の延期、支払の繰延べ、借入金返済猶予、賃金カット、手当のカット、消耗品の再利用、他の予算の流用などで、何とか当座は資金をつなぐことはできるにせよ、秋頃には、多くの医療機関において資金ショートが続出するのではと懸念します。
では、そのような事態を想定して、今のうちから金融機関から運転資金を借りておけばとも思われますが、これもそう簡単ではありません。おそらくこのコロナ禍が最終的に完全に収束するまでに(つまり世界中でコロナ感染者がいなくなるまで)、少なくとも2年から3年はかかるでしょう。その間、金融機関がコロナ患者を受け入れる医療機関に運転資金の融資を行ったとしても、(今の厚労省の診療報酬体系が改定されない限り)巨額の赤字が累積し続けるため、貸付金を回収できる目途が立ちません。
それどころか、巨額の赤字の累積により、早晩、資金ショートしてしまい、経営破綻するリスクも高いわけです。そのような経営破綻必至、貸付金回収のリスクの高い医療機関に対し、金融機関が運転資金を貸し付けることは通常あり得ません(もちろん不動産担保など取得していれば別ですが)。むしろ、既に医療機関に融資を行っている金融機関側の立場に立てば、医療機関の経営破綻が近々起こることが予想されるのであれば、これまでの貸付金を一気に回収しようとする、いわば貸し剥がしが始まることも十分考えられます。
つまり、現在、既に金融機関から運転資金を借り入れている医療機関にとっては、追加融資のお願いに足を運んでしまうと、直ちにこれまでの借入金の返済を求められ、一気に経営破綻してしまう可能性すらあるのです。
一方、医療機関の中でも、公的な機関、例えば全国の大学病院では、仮に金融機関からの借り入れができなくても、大学本部の資金でカバーすればよいと思われる方もいるかもしれません。ただし、各大学のバランスシート上の流動資産の使途はほぼ決まっており、病院に発生するであろう巨額の赤字分を補填できるだけの余剰資金のある大学はほとんどないものと思われます。
自治体病院などでも、一時的に多少の財政支援はできるかもしれませんが、数年に亘っての巨額の赤字補填について、議会の同意を得ることは難しいのではないかと推察されます。
あと、多くの方からよく聞かれるのは、医療機関において、コロナ重症患者を受け入れると、何故、大きく収益が下がるのか、損失が発生するのかということです。
実際のところ、病院で一人でも重症のコロナ患者を受け入れようとすると、感染予防のための完全隔離措置や部屋の配置転換、人員の重点配置その他諸々の対応が求められ、さらにはICU病床、一般病床を含めた病床の(一部)閉鎖、手術件数の削減、一般外来患者数の抑制などの対策を講じる必要がある一方で、検査や感染予防のための医療用具・器具などの購入や機器の消毒措置など感染防止対策のための様々な追加経費負担が発生します(もちろん、感染予防の観点から、検診や診療に来られず、本来受けることができるはずの適切な医療を受けることができない方も多くいらっしゃいます)。
院内感染を起こさないという最重要ミッションを果たしながら、一般の診療業務も継続しようとすれば、上記の対応をせざるを得ず、結果として収入は下がり、支出(経費)は増えてしまうということになってしまうのです。
3.医療機関経営破綻回避に向けた具体策
このように、日本の医療機関において、コロナ患者を受け入れながら、一般の診療業務を継続しようとすれば、多くの医療機関で、早晩、資金不足に陥ることは必至であり、これを防ぐために、次の補正予算の審議において、まずは各医療機関に対する公的資金の投入について検討をして頂きたいと思います。
ただ、今回の財政問題について、国民医療費の負担という観点から俯瞰的に見てみますと、以下のような手法も検討できるのではないかと考えます。
1年間の日本の医療費約43兆円のうち、国庫負担額は年間約10兆円、自治体負担額は約6兆円で、約16兆円の公的資金が医療費として投じられるところ、今年度の診療報酬が2割減るということは、おそらく4月以降の公的資金の負担額も、年間で2割(約3兆200億円)減少することを意味します。
そもそもこの3兆2000億円は、今年度の支出を予定していた資金ですから、この資金を、コロナ患者を受け入れている医療機関に交付したとしても、新たな予算(財源)が特に必要になるわけでもありません。
具体的な交付方法としては、今年度分の医療費支出予定額の一部を振り替え、「医療機関向け損失補填基金(仮)」(3兆2000億円)を新たに設け、各医療機関に直接、必要な資金を供給するという手法や、コロナが収束するまで時限措置として、診療報酬を(コロナ診療に限らず)一律2割上乗せ改定する、という手法もあるかと思います。
実務担当者から見れば、なかなか課題は多いとは思いますが、今は、国家のそして医療界の緊急事態ですので、上記提案に限らず、通常は不可能と思われる手法であっても、ぜひ、検討して頂ければと思います。
さらには、もちろん、限りある国内の医療リソースを最も効率的に利用するという視点からの対策も必要で、例えば、コロナ重症患者については、できるだけ専門病院に集中させ、そこにリソースを集中的に投入し、その他の病院については可能な限り負担の軽減を図るなど、既にドイツで採用されている政策についても導入を検討すべきと思われます。
さらには、感染防止や感染者発見のための各種措置(PCR検査や抗原検査、抗体検査などのサーベランスや接触確認アプリ)の完全導入も早急に実施すべきと思われます。また、感染予防対策や感染者へのリモートケア、スマート社会の実現に向けて、ウェアラブルやデジタル、AIなど先端科学技術の利活用についても今回のコロナ禍を契機に一気に推進すべきだと思います。
4. 医療界への期待
思い起こせば、2002年からの小泉内閣の聖域なき構造改革により、毎年約2200億円の医療費が5年間削減された結果(合計1兆1000億円)、2008年当時、多くの医療機関の経営は危機的状況に陥っていました。
その難局を打開すべく、2008年には、超党派の国会議員有志による「医療現場の危機打開と再建を目指す国会議員連盟」が創設され、医療界との積極的な対話を通じ、医療界の抱える様々な課題についての政治的な解決が図られました。この流れのなかで、2010年の診療報酬改定においても、救急医療や、周産期医療、高難度医療などにかかる診療報酬点数が大幅に引き上げられ、結果、多くの医療機関の経営破綻が回避されました。
今回も、医療界全体から、パンデミック対策及び医療制度改革に向けた数多くの提言が挙がり、それを契機に日本の医療界全体が大きく発展していくことを期待したいと思います。
5. 最後に
4月30日には、補正予算(25兆6900億円)が成立しました。この予算措置により多くの医療機関、医療従事者が救われることは間違いありません。ただし、現状の政策は、どうしても目の前にある課題をパッチワーク的に解決しようとするものが多く、抜本的な課題解決を図らなければ、個別課題の解決に至らないケースも多々あります。
パンデミック対策の各国の先進的な取組を参考に、日本政府においてもパンデミック対策のための組織の設置、予算、専門人員の配置、法令の整備なども含め、抜本的に体制を見直すことも必要かと思います。
今回のコロナ禍により、初診患者へのオンライン診療が一部解禁されるなど、これまで進まなかった医療のデジタル化、IT化、さらには電子政府を普及させる大きなチャンスが到来したともいえます。日本は、これまで幾多の国家的危機を乗り越え、大きく成長してきました。今回のコロナ禍も日本が更なる発展をするための大きなきっかけになることを祈念します。
境田 正樹 弁護士、東京大学理事(病院担当)