就任演説の前に、最高指導者江沢民の後見人といわれた汪道涵から特別ルートを通じてメモが来て、「一つの中国」原則と「両岸人民は共に竜の子孫」を入れて欲しいと書いてあった。今回のコロナ禍でも中国領事館がウィスコンシン州にメールで「中国支持」を要請、「親愛なる総領事殿、ふざけるな」と返信されている。
「一つの中国」原則を認めたくない陳氏は「将来、一つの中国の問題について一緒に解決していきたい」という表現にし、「竜の子孫」は「そもそも竜は存在しないもので、その子孫はいないだろう」と思い、「両岸の人民の血はつながっており、共同の歴史と文化を有す」とした。
行政院長に、読書家でインテリ将軍と呼ばれた空軍出身の唐飛を起用したのは、長年国民党の私兵だった軍が「台湾独立」を主張する民進党を敵視していたこともあるが、李登輝が軍人出身の郝柏村を起用した故事にも倣った。陳氏は総統になって初めて当時の李氏の苦労が分かったような気がした。
「狭い台湾に4つも原発はいらない」が持論の陳氏は、「台湾第4原子力発電所(核4)」の工事中止でも国民党と対立した。核4建設支持者の唐氏が行政院に工事継続提案をするとの情報も入った。以前、胸の手術の時に唐氏から預かっていた辞表を受理し「内閣不一致」を回避した。
が、01年1月、大法官会議の憲法解釈で「立法院が予算を可決し、執行中のプロジェクトを行政判断だけで止められない」ということになり、核4工事は再開された。その後、工事中の事故もあって反対運動が盛り上がった結果、15年7月に国民党の馬英九政権は核4建設の完全凍結を決めた。
16年に原発ゼロを公約に掲げた蔡英文が総統になり、翌年「脱原発法」が成った。蔡政権が惨敗した18年11月の地方選挙の世論調査でも支持された。筆者は13年、高雄市政府要人から東日本大震災クラスの地震で狭い台湾は壊れると聞かされ、福島原発は地震で壊れた訳でない、と述べたことがある。
さて、民進党の政権奪取は、国民党内で馬英九台北市長らによる李主席への激しい批判を生み、李氏は党主席を辞任した。01年には李氏派の議員が国民党を次々離党し、新党・台湾団結連盟を結成、李氏は精神的指導者となった。国民党執行部は李氏の党籍を剥奪し、党は再び外省人に握られた。
渦中の李氏は総統の仕事を丁寧に引き継いだ。陳氏は週2回李氏を訪い、半日李氏が語ることをメモした。軍や情報機関との接し方、米国や日本と付き合う際の注意点、中国の脅威への心構えの機微などを惜しみなく教えた。「台湾を良くしてくれ」という強い気持ちが伝わってきたと陳氏は述懐する。
李氏の国家観は「台湾独立」にこだわらない現実主義だが、陳氏は独立建国を目指す理想主義者だ。李氏を精神的指導者として仰ぐ台湾団結連盟はその後、しばらく民進党政権に協力したが、徐々に距離を置くようになり、陳氏と李氏が会うことも少なくなった。
陳氏は市長時代から対日関係を重視し、訪台した日本の政治家と必ず会った。99年4月の訪日では森喜朗幹事長に料亭で歓待され、「総統に当選したら就任前に来日を」といわれた。が、1年後に総統になったころ小渕首相が病に倒れ、森氏が首相に就任した。森氏に掛ける迷惑を考えて訪日を辞した。
総統就任式に訪れた石原東京都知事は、外国来賓の席でもひときわ存在感を放った。陳氏は若い頃に石原氏の小説を読んだことがあり、作家としても尊敬していた。台湾との関係を重要視する政治家だと知り嬉しかった。石原氏は就任式に2回とも訪台し、日本人観光客の誘致などに貴重な助言を得た。
尖閣問題など、日台間に問題がない訳ではない。が、陳氏は解決できないものは棚上げするしかないとの考えだ。彼が総統だった8年間、この問題で日本を困惑させたことはない。彼は、石原氏が強調するように日台共に中国の脅威があり、これを意識すれば仲良しない方がおかしいと述べる。
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04年3月の2期目の総統選挙も激しい戦いになった。国民党連戦と親民党宋楚瑜が合体し、二人が総統、副総統の名乗りを上げた。4年前は、国民党の分裂で漁夫の利を得た陳氏が39%の得票率ながら当選した。今回も世論調査で僅差ながら勝てるとされた。そこに予想外の事件が起きた。
投票前日に台南をオープンカーで遊説中に銃撃されたのだ。陳氏は腹部、副総統候補呂秀蓮は膝を撃たれた。下腹部に深さ2cm、長さ11cmの銃創だったが内臓は無事だった。陳氏が「民主主義はテロに負ける訳にいかない」と歩いて病院に入ったことが、相手陣営から「自作自演」と攻撃された。
銃撃犯は防犯カメラなどから地元の男と特定され、10日後近くの湖から死体で発見された。死因も動機も未だ不明だ。数年後、豪州に亡命した中国の元大学教授袁紅氷が、人民解放軍の情報機関が選挙を混乱させようとしたテロだと証言した。が、裏付け証拠はなく真相は判らない。
本稿で記したテロ行為はこれで何件目だろうか。陳水扁夫妻、林義雄の母と娘、テロではないが鄭南榕焼身自殺もあった。他にも美麗島事件などと並んで台湾民主化の契機の一つとなった「江南事件」もある。この事件では、台湾の特務機関が絡んでいたことが分かり、米国は態度を硬化させた。
事件は84年10月に起きた。蔣経国の伝記を書いたサンフランシスコ在住の作家江南(劉宜良)が殺されたのだ。FBIは台湾の竹聯幇(暴力団)の陳啓礼らを犯人と特定し、身柄引き渡しを求めた。ちなみに蔣経国は大陸時代から長く特務機関を統べてきた。
閑話休題。投開票は予定通り行われ、647万票の陳氏は644万票の連氏を僅差で破った。連陣営は納得せず、連日大規模デモをして開票の不正を主張した。票の数え直しをしたが結果は変わらなかった。「銃撃事件」の自作自演立証のため、米国から鑑識専門家を呼んでの現場検証さえ行われた。
その2期目のトピックの一つに、政府の歴史の真相解明プロジェクトから06年、「二・二八事件の責任者は蒋介石だ」との報告書が上がった件がある。陳氏はこれを受け中正紀念堂の閉鎖を決めた。が、台北市は中正紀念堂を市の「歴史建築」に指定し、中央政府が手を出せなくした。
これと逆の噂話が高雄市にある。市の中心地にあった台湾五大家族の一つ高雄陳家の邸宅を高雄市が「歴史建築」に指定する動きがあった。それを知った陳家は、アッという間にそれを取り壊して更地にしたとのこと。以来、その一等地は駐車場として使われている。
他の件は、中国が05年3月に成立させた、台湾への武力侵攻を明記した「反国家分裂法」に関係する。民進党は大規模な抗議デモを計画したが、その朝、台湾独立運動を推進してきた奇美実業創業者の許文龍が「反国家分裂法を支持する」という趣旨の「引退声明」を各紙に掲載したのだ。
声明が本心でないと判る陳氏が確認すると、許氏は「中国による脅迫」を認めた。中国が用意した声明文に署名しなければ、許氏の江蘇省の子会社に勤務する台湾人幹部全員を、脱税容疑で逮捕するといわれたという。これが今回のコロナ禍でも国際社会から指弾されつつある中国共産党の本質だ。
08年5月に2期目を終えた陳氏は11月、06年6月に騒がれ始めた機密費横領などで逮捕起訴され有罪となった。15年1月の保釈までの6年余りの刑務所生活で、パーキンソン症候群、脊髄小脳変性症、運動失調症などの多くの病気を患い、体はぼろぼろになっていた。
高雄に戻って3年が過ぎた18年1月、陳氏は95歳の誕生日を迎えた李登輝の自宅を訪ねた。12年振りだった。体調が少し回復した陳氏を、李氏は玄関前で「陳総統、好久不見(お久しぶりです)」と笑顔で迎えてくれた。痛烈に批判し合うこともあった二人だが、その時の表情は穏やかだったという。