フロイド氏と「8分46秒の祈り」

米ミネソタ州のミネアポリス近郊でアフリカ系米人、ジョージ・フロイドさん(46)が先月25日、白人警察官に暴行された末、窒息死した。そのシーンがテレビに放映されると、米全土で警察官の蛮行に抗議するデモが起きているが、欧州各地にも波及し、当方が住む音楽の都ウィーンでも4日、約5万人の市民が集まって、人種差別抗議デモが行われた。9日はフロイドさんの出身地の米テキサス州ヒューストンで葬儀が行われたばかりだ。

▲ジョージ・フロイドさんの死を報じるオーストリア日刊紙エステライヒ(2020年6月9日付)

▲ジョージ・フロイドさんの死を報じるオーストリア日刊紙エステライヒ(2020年6月9日付)

当方は人種差別抗議デモの様子をTVのニュース番組でフォローしてきたが、少々合点がいかない面がある。どうして多くの人々が短期間に結集し、抗議デモが出来るのか、といったデモ主催者側の動員力の問題だけではない。

最も変だと感じたのは、カナダのジャスティン・トルドー首相がフロイドさんの死を慰霊するために、同氏が警察官に首を抑えられた時間(チョーク・ホールド)、8分46秒間を再現し、その時間祈ったというニュースを読んだ時だ。

トルドー首相は米国での出来事を自国の問題のように受け取り、「8分46秒の祈り」を捧げたという。米国やカナダ以外でも同じように、「8分46秒の祈り」を捧げた人々がいたことを知った。

犠牲者への「8分46秒の祈り」はかなり長い。通常、亡くなった人に1分間黙祷が多い。多くの人々は突然パリサイ人になったように神の前にフロイドさんのために時計の針を見ながら長く祈ったのだろうか(どうか当方の少々シニカルな表現を許してほしい)。

誰が、何の目的のためにフロイド氏のチョーク・ホールド(choke hold)の時間を測ったのか。司法解剖医や事件を撮影したフイルムを検証した捜査当局がフロイド氏が手錠をはめられたままで8分46秒、首周辺を圧迫されていたことを検証したのだろうか。

事件現場を撮影したフイルムを見る限りでは警察官の対処は非常に残忍だ。そのシーンを見た人々が警察官の蛮行に怒りを感じたとしても当然だろう。

ただし、「8分46秒の祈り」は一種の政治的パフォーマンスではなかったか。人種差別反対のために抗議デモに参加したまじめな人々から批判を受けるかもしれないが、何か作られたドラマのように感じるのだ。「8分46秒の祈り」はその印象を嫌が上にも強めるのだ。

神の立場になってほしい。フロイドさんが亡くなって以来、多くの人々が8分46秒、神に向かって祈り出したら、その祈りの受け手の神は大変だろう。「ゆっくりと休めないから、もうやめてくれ」と言い出すかもしれない。

人種差別問題は政府が関連法案を採択すれば、解決できるテーマではない。警察官の教育もそうだ。そんな簡単な問題だったら久しく解決済みだろう。人種差別は米国だけではなく、欧州でも至る所で日々、起きている。そして黒人だけが犠牲者でもない。「ブラック・ライフズ・マター」は事実の一部を表現しているのに過ぎない。

外国人がまだ少ない1980年初めウィーン入りした時、当方も嫌というほど人種差別を受けてきた。外国人が増え、こちらもドイツ語が分かってきたこともあって、人種差別を受ける回数は少なくなったが、やはり人種差別は存在する。人種差別は黒人だけではなく、米国だけでもない。

人種差別は日々、至る所で目撃され、その戦いも日々繰り返されている。自分の周囲から差別をなくしていく努力を払う以外にない。それをパーティを開くように多くの若者を集め、フロイドさんの慰霊という名目で人種差別反対の「8分46秒の祈り」を捧げたとしても、その効果はどうだろうか。多くの参加者は別の大きな出来事が生じれば、フロイドさんの名前すら思いだせなくなるだろう。

フロイドさんの死を政治的に利用することを止めるべきだ。次期大統領選が近い米国では、反トランプ陣営がフロイドさんの死を利用して、政治集会を開催し、反トランプ運動を活発化している。あたかも、ハゲタカが死体を見つけて飛び降りてくるように、フロイド氏の遺体を目指して、多くの人々が様々な思惑で政治利用しているように感じるのだ。

ホワイトハウス前で人種差別抗議デモが行われた日、参加者の間から中国語が聞かれたという。警察隊が投げた催涙ガスを簡単に投げ返した中国人の姿も目撃されている。中国人の素早い反応は職業軍人を彷彿させたというのだ。新型コロナ問題で中国批判を強めてきたトランプ氏の再選阻止のために、中国人が秘かに動員されているという情報は、確認は難しいが、十分考えられる。人種差別(特に黒人差別)抗議、警官の暴力行使への抗議は格好のテーマであり、多くの人の支持を得やすいテーマだ。誰も反対できない。

新型コロナの感染が収まらない米国では、多くの人々が集まるデモ集会は控えるべきだ。先述したように、人種差別に抗議したければ、自身の周囲でそれを実践すればいいだけだ。民族、人種に関係なく隣人を愛する実践を繰返すほうが得策ではないか。

人種差別抗議デモ集会といえば、マーティン・ルーサー・キング牧師(1929~68年)の公民権運動を思い出す人は少なくないだろう。幸い、キング牧師が生きていた時代のように、政治スローガンに動かされて路上で人種差別の抗議デモをする時は過ぎた。後は自身が率先して隣人を愛することだけではないか。私たちは、肌の色の違い、民族の違いで互いに愛せない、という現実の中に生きている。私たちの“愛の限界”こそ本来、最も深刻な問題ではないか。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2020年6月11日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。