横田滋さんご逝去のニュース映像が流れるたび、涙腺の緩い筆者はついついもらい泣きだ。とりわけ、02年9月の小泉訪朝で、帰国が決まった拉致被害者5名のほか8名は死亡との報を受けた滋さんの記者会見は、とても涙なしでは見られない。
でも空港に5名を出迎えた滋さんは、一時めぐみさんと一緒に暮らした曽我ひとみさんの手を取って、笑顔で帰国を祝福し長年の苦難を労った。また泣かされた筆者は、横田一家といい、飯塚一家といい、有本夫妻(嘉代子さんは2月に逝去)といい、被害者家族はなぜこうもみな立派なのかと驚嘆する。
凄いとか見事とか偉いとか強いとか、いろいろ形容詞はある。が、家族会の皆さんには「立派」が一番相応しいように思う。9日の、早紀江さん、拓也さん、そして哲也さんの会見も実に立派だった。
早紀江さんは
どうしてもなかなか国柄が国柄なので、本当に難しい問題だなとつくづく思わされて
いるとしつつ、
献身的に私たち全員のことを被害者のことを家族のことを報道し続けていただいた長い年月に対して、心から感謝いたしております
と報道陣に礼を述べた。
置かれた状況を知悉した、この方らしい立派な発言と思う。哲也さんは少し強くこう述べた。
一番悪いのは北朝鮮であることは間違いないわけですが、この拉致問題が解決しないことに対して、あるやはりジャーナリストやメディアの方々が、安倍総理は何をやっているんだというようなことをおっしゃる方もいます。北朝鮮問題が一丁目一番地で考えていたのに、何も動いていないじゃないかというような発言を、ここ2~3日のメディアを私も見て耳にしておりますけれども、安倍政権が問題なんではなくて、40年以上も何もしてこなかった政治家や、「北朝鮮なんて拉致なんかしてるはずないでしょ」と言ってきたメディアがあったから、ここまで安倍総理、安倍政権が苦しんでいるんです。
このジャーナリストやメディアや政治家が誰なのかはネットに出揃ったようだ。よって本稿では、この発言直前に名の出た首謀者・金正日と、家族会に訴訟まで起こされた田原総一朗氏のことを書く。
金正日
帰国した拉致被害者は、北での生活の一端こそ語ったが、おそらく接した機会のない金正日が拉致事件を起こす背景やその生活などはご存じなかったろう。ところが、めぐみさんがさらわれた2ヵ月後に拉致されて8年後に脱出した、韓国の著名な女優と元夫の映画監督の手記が88年に出版されていた。
書名は「闇からの谺(こだま)」(文春文庫)。そこには二人が間をおいて別々に拉致される様子や、正日との濃厚な接触を含む8年間の北朝鮮での生活が赤裸々に綴られる。正日の拉致動機を先に述べれば、彼の芸術好きと後継者の実績作りのために斯界で著名な二人を拉致したということ。
崔銀姫は当時40代後半、韓国を代表する女優で俳優養成学校の校長。元夫の申相玉は50代前半、著名な映画監督だったが、ふとしたことで朴正熙の怒りに触れ、映画会社を潰されて失意にあった。
女史は78年1月、後に唆し役とわかる面識ある韓国人女性から、中国人スポンサーを紹介すると香港に呼ばれ、言葉巧みにモーターボートに誘われて、貨物船でそのまま北朝鮮の南浦港に運ばれた。そこに待っていたのが何と金正日本人だったというから驚く。
贅沢な調度や日本家電で溢れた正日の別荘に住まわされ、男女2名の監視兼世話役と共に暮らした。正日邸でのパーティーにも頻繁に呼ばれ、縁者だけの時には妹の金敬姫・張成沢夫婦も常連だった。中国の華国鋒主席が出席した正日の誕生祝い観劇会にも、離れた席だったが出席した。
手記で驚くのは、毫も悪びれるところのない正日の態度。日本語教育係や旅券入手が目的の日本人拉致と違い、女史や申氏が南の同胞であり、芸術家二人の専門知識で北のそれを高度化させる目的だからか、友人のように接する正日の様子に、相手の気持ちなど眼中にない、ある種の異常を垣間見る。
当時32歳の正日は74年2月に政治委員に選出され後継者に収まったが、77年に腹違いの金平一(1954年-)が金日成総合大学を卒業、護衛司令部戦車部隊長に抜擢された。金日成には正日に政治、平一に軍を見させるつもりがあり、正日には焦りがあった。(「金正日と金正恩の正体」(文春新書)李相哲)
その後二人が、悲しいかな漸次馴らされてゆく日々が描かれる。が、拉致から8年経った86年2月、監視役8名と共にベルリン映画祭に参加することになった二人は、隙を見て脱出に成功する。手記は2年後の88年1月に米国で自費出版され、5月に日本語訳が出た。
だのになぜ、97年2月3日に産経の阿部雅美記者が、
20年前、13歳少女拉致 北朝鮮亡命工作員証言 新潟の失踪事件と酷似
と報じるまで、出版から10年間も拉致の存在が日本で認知されなかったのか。
田原総一朗
田原氏は07年10月30日から4日間、サンデープロジェクトの取材で訪朝し、宋日昊日朝国交正常化交渉担当大使ら政府高官と面会した。その様子が11月5日の早稲田大学でのシンポジウムで明かされた。
彼は北高官が「拉致被害者で生存している人はいる」と明言したと述べ、毎日新聞の岸井成格氏が「シンボリックな人は入っているのか」とめぐみさんを念頭に問うと、「残念ながら入っていない。以前の調査時には8人について調査を行ったが他の人は未調査。8人は死んでいるがそれ以外で生きている人はいる」との北の主張を披歴した。(参照:j-castニュース)
さらに09年4月25日の「朝まで生テレビ」でも、「横田めぐみさんと有本恵子さんは生きているという前提で」行う政府交渉をまともでない、「外務省も生きてないことは分かっているが、生きていないという交渉をするとこてんぱんにやられる」などと述べ、「立派」に北朝鮮のマウスピースとなった。
家族会・救う会は5月11日と16日にこれに抗議、田原氏は5月22日に「お詫び」と「ご説明」の文書を出すも、「説明」は受け入れられないとして、有本さん夫妻が7月に田原氏を提訴した*。そして2年後の11年11月、神戸地裁は田原氏敗訴の判決を下した。(参照:救う会:北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会)
判決は、表現の自由を根拠に「発言は取材に基づく正当なもの」との田原側主張を退け、「発言は本来の趣旨とは異なったものであったとはいえ、誤りは重大で、精神的苦痛は受忍すべき程度を超えるものといわざるを得ない」、「原告らの人格的利益に対する配慮を欠いたという不法行為である」とした。
筆者は当時、田原氏がしばしば、自分は北朝鮮に乗り込んで厳しいことをいってきた、との趣旨を述べるのを聞き、北が田原氏を「与し易い」と思うからこそ渡航が許される、との自覚がないのかなあ、と思ったのを覚えている。「殺されても聞く」(朝日新書)の著書名の通り、聞くだけで帰ってきたか。
拉致事件の解決に熱心でない人々は、おおむね反安倍&反トランプの層と重なるようだ。目下は二人とも芳しくない支持率だが、拉致問題にしろ、対中問題にしろ、この日米の現政権を支えずにどう解決するつもりか、と筆者は思うのだが。