ジョージ・フロイドさんへの暴行事件をきっかけに世界各地で広がる反人種差別デモが話題になっています。アメリカのアトランタではドライブスルーで酔っぱらって運転席で寝ていた黒人のドライバーが警察ともみあいになり、発砲されて死亡しました。
命の値段はいくらなのか、という議論もあります。フロイドさんの家族が「(20ドル札の偽札使用容疑だったので)20ドルで殺されるのか」と嘆きました。アトランタのケースでは飲酒運転でドライブスルーで寝ていただけで殺されるのか、という論理なのでしょう。しかし、この事件では警官の銃を奪ったという事実があります。常に危険と立ち向かう警官の正当防衛も議論されるべきでしょう。
さて、対立構造が黒人と警官というところに焦点が集まっていますが、全世界で広がる「反人種差別のデモ」は本当にその言葉通りなのか、私には違う側面があるような気がしてなりません。
環境活動家のグレタ トゥンベリさんが高校生などに与えた影響は果てしないものがありました。発言内容が一方通行で世の中のバランス感覚とは程遠く、一点突破主義のエキストリームさとわかりやすさと17歳の若者というポジショニングが共感を呼び話題となりました。
もともとエキストリーム系はフィリピンのドゥテルテ大統領やトランプ大統領が先陣でありました。安倍首相の岩盤を打ち砕くアベノミクスとか日銀黒田総裁のバズーカ砲も意気込みはそこまでエキストリームではないにせよ同じ方向性でした。ただ、打ち崩せず現在は調整型の首相と日銀総裁に転換しています。
英国ではEU離脱につながった難民の問題もあります。香港の国家安全法問題もあります。これらは上が決めるルールに対する反対の声の集約です。
フロイドさんの事件をきっかけに動き出したデモ活動はエキストリーム系で調整型の反対語である「牽引型」であり、今回の事件の場合、本人が死亡しているので家族や著名人の発信をベースに草の根的展開になっているのが特徴であります。香港の民主化デモもグレタさんがリードする環境問題のデモも広義では同じくくりに入ると考えています。
ではその原動力は何か、であります。「情報開示とその共有が一つの間違いも犯せない社会を作り出した」というたたき台はどうでしょうか?とても粗削りですが、根はそのあたりに見いだせると思うのです。情報開示と共有はこの20年、着実に進化してきたことなのであえて申し上げません。問題はそれを受けて今までなら問題にならなかったようなことが暴露されシェアされ、バッシングの対象になる社会になった点です。
「文春砲」は相変わらず炸裂していますが、黒川前検事長の賭けマージャン事件も一昔前ならばれることはなく雀卓を囲みながら人間関係を築くのは昭和の名残であった点は否めません。それゆえ「点ピン」マージャンなら社会の実情から必ずしも高くないというのは昭和的発想を基準に常識範囲という奇妙な答弁に聞こえるのです。令和的発想をする者はそんな常識何処にあったと食って掛かるわけです。
現代社会は全ての常識を新しいルールに基づき、裁くという発想があり、ドゥテルテ、トランプ、グレタ各氏はそのルール制定に声を上げ、賛同者を集める流れであると考えています。
慰安婦問題もそうなのですが、その当時はそれが普通のやり方として考えられていたのに何十年か経つうちに常識が変わり新しい発想が取り入れられた瞬間、日本はとんでもないことをしたというわけです。新ルールをいつの時代のどこにでも当てはめようとします。フロイトさんのケースも警察のやり方に対して新しいルールを制定しようという動きと考えられます。
しかし、新ルールを積み上げていくと正直、息が詰まるような生活しかできなくなります。現代社会においてあらゆる法律が網の目のように張り巡らされ、その法律も遂次変わっていきます。その上、監視社会はセキュリティカメラのみならず、多くの人が持つそのスマホが証拠をつかむのです。挙句の果てにそのルールに乗り切れずドロップアウトした人間が「俺は関係ない」という形でトラブルを起こします。
私も法治国家の最前線である北米に住んでいて息が詰まるような思いを感じます。特にコロナの時はあらゆる行動制限の中でわずかで限られた自由を求めていたというのは決して大げさな表現ではありません。我々はストレスを溜めながらも耐え忍ぶのか、アウトローを生み出すのか、はたまた民衆が声を上げてそれに抵抗するのでしょうか?このような社会社会環境こそが一種の現代病を生み出しているのではないでしょうか?
では今日はこのぐらいで。
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2020年6月18日の記事より転載させていただきました。