翻ってわが国はどうであろうか。ずっと頼りにしてきたアメリカの行方が、連載①の通り心もとないとなると、日本は日本で、自立の方向を探っていかなければならない。が、残念ながら、コロナ下のアメリカほど急な変化ではないものの、わが国もまた「じわじわ」と壊れかかっている雰囲気だ。
別所で書いたとおり、コロナ第一波は、日本はうまいバランス(命も経済も、等)で乗り切った。新規感染者数は国全体で約100名/日程度(東京で50名/日)という安心できない水準ではあるが、アメリカなどと比べれば格段に安心な状況であると言えよう。
ただ、いわゆるウィズコロナの時代、経済活動を大っぴらに完全に戻すことはできず、徐々に、飲食店等が店を閉めたり、後継者の見込みが立たない地域の企業が廃業したりと、ボディーブローのように影響が出始めている。5月の完全失業率は0.3%増の3%弱とまだ低い水準ではあるが、「休業」という形の隠れ失業も少なくないとされる。
政権の支持率もじわじわと下げていて、もはや、憲法改正その他の大改革を行う余力は感じられず、「貯蓄」を取り崩しながら、何とか任期を終えるというモードに入っているように見えなくもない。
コロナ前から芳しい状態であるとはいえなかったが、国家財政、少子化、農業、疲弊する地域等々、真綿で首を絞められるように日本の諸課題もコロナ下で徐々に苦しさを増し、社会が蝕まれて行っていることは明らかだ。
特にわが国は、米国のように世界をけん引するIT系ベンチャーがあまり見当たらず、また、その萌芽もまだ感じられず、引き続き20世紀型のものづくり企業等が席巻しているという状況下、コロナ下での非接触型ビジネス(IT企業中心)の進展もあり、一層、ジリ貧感が強いともいえる。
そんな中での日本の希望は何であろうか。現在上映中の二つの映画に象徴的にそのことが表されている気がするので紹介したい。
一つは、福島原発事故を描いた『Fukushima 50』だ。上映中、思わず何度も涙してしまったが、改めて分かるのは、日本の危機を救ったのは、現場の人たちの使命感とリーダーシップであった(注:ここでいうリーダーシップは、日本で曲解されている「人を率いる力」という意味ではなく、自分自身をリードする「始動」力という原義)。普通の国の現場作業員であれば、我先にと逃げ出したくなるような状況で、逆に、危険を省みずに積極的に止まろうとし、最後まで知力と体力のすべてを尽くして未知の事態に対処しようという精神性は現在でも日本の圧倒的な強みであろう。
もう一つは『三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実』だ。大学時代に、この討論の全文起こしの書籍を読んだことがあり、今回、それこそ映像と言う形で、四半世紀ぶりにこの討論会を感慨深く体感した。(記憶だと、書籍では、全共闘側は、学生A、Bのような形で表記されていたが、今回の映画では実名で映像が出ていた。予備校時代に小論文を教わったことのある好々爺な先生が、実は全共闘の闘士だったりして驚いた)
一見、右派を代表する三島と左翼の東大全共闘の互いを論破せんと意気込む「知のバトル」と見られがちなこの会だが、私が映像を見て改めて感じたことは、三島と全共闘の議論そのものを包む一体感というか、極端に言うと同志にしか感じえないような奇妙な一致が見えたことであった。
それはつまり、日本の現状を憂う危機感だったり、それに対して、何かしなければならない焦燥感だったりするわけだが、要すれば、進む方向性は違うものの、彼らの共通の敵はいわゆるノンポリ・無関心であり、天皇制をめぐる議論なども誇張して言えば「内ゲバ」に見えなくもなかった。
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③へつづく:3日朝掲載します