『365日でわかる世界史 ― 世界200カ国の歴史を「読む事典」』(清談社)ではスポーツについての歴史もくわしく書いている。夏季五輪・冬季五輪・パラリンピック・サッカーなどプロスポーツの歴史など扱っているが、今回は、夏季五輪の歴史の部分を圧縮して紹介したい。本の方にはもっと詳しく書いてある。ここでは、日本選手の活躍はほんのわずかにして、大会で話題になった世界の選手の方を紹介してみようと思う。それこどが、五輪の歴史だと思うからだ。
まずは、前編は1964年東京五輪まで。
第1回:アテネ(ギリシャ、1896年):大会参加者は男子のみ。マラソンは、ギリシャのスピリドン・ルイスが優勝した。この大会のために作曲された「オリンピック賛歌」は東京大会で復活した。
第2回:パリ(フランス、1900年)鳩を標的にした射撃、凧揚げ、魚釣りなども。英国のシャーロット・クーパーが女子テニスのシングルスで近代オリンピックの女子金メダリスト第1号となった。
第3回:セントルイス(アメリカ、1904年)マラソンで途中、自動車に乗った「キセルマラソン」事件が知られる。
第4回:ロンドン(イギリス、1908年)マラソンでイタリア選手ドランド・ピエトリは競技場のゴール直前で倒れて役員の助けでゴールしたが失格とされた。
第5回:ストックホルム(スウェーデン、1912年)日本から短距離の三島弥彦とマラソンの金栗四三が初参加した。マラソンでポルトガルのフランシスコ・ラザロが倒れて翌日に死亡した。
第6回:(1916年)ベルリン大会が予定されていたが第一次世界大戦で中止された。
第7回:アントワープ(ベルギー、1920年)第一次世界大戦でベルギーは中立を侵されて戦場となったことから戦後復興のシンボルとして企画された。テニスの熊谷一弥がシングルスと柏尾誠一郎と組んだダブルスで銀メダルを獲得した。フィンランドのパーヴォ・ヌルミは陸上の1500m走をはじめ二種目で金メダルを獲得し、パリ、アムステルダムを含めて9個の金メダルを獲得した。
第8回:パリ(フランス、1924年)ワイズミュラーが100m自由形、400m自由形、自由形リレーで金メダル、水球で銅メダルを獲得し、のちに映画スターとしてターザン役として活躍した。
第9回:アムステルダム(オランダ、1928年)インドがホッケーで金メダル。織田幹雄が三段跳び、鶴田義行が平泳ぎで金メダルを獲得。テニスはプロ化に反対して実施競技から除外。
第10回:ロサンゼルス(米国、1932年)男子競泳で日本が400メートル自由形をのぞく5種目で金メダル。背泳では金・銀・銅を独占。
第11回:ベルリン(ドイツ、1936年)古代オリンピックの発祥地ギリシャのオリンピアで聖火を採火し「聖火リレー」が実施された。アメリカの黒人であるオーエンスが、短距離と走り幅跳びで4冠を達成した。女流映画監督のレニ・リーフェンシュタールによる記録映画である『民族の祭典』は、スポーツ映画の記念碑的な名作といわれる。
第12回:皇紀2600年に合わせて東京での開催が予定されていたが、戦争の激化のために辞退せざるを得なくなった。 代替のヘルシンキ開催がが予定されたが、これも取りやめとなった。
第13回:(1940年) ロンドンでの開催が予定されたが中止された。
第14回:ロンドン(イギリス、1948年)ロンドン五輪では日本とドイツの参加は認められなかった。オランダ女子のブランカース=クンが100m、200m、80m障害、400mリレーの四種目で金メダルを取った。
第15回:ヘルシンキ(フィンランド、1952年)日本の参加も認められた。人間機関車と言われたチェコスロバキアのザトペックが、5000メートル、10000メートル、マラソンで金メダルを獲得した。ソ連がオリンピック初参加した。
第16回:メルボルン(オーストラリア、1956年)ハンガリー動乱の直後なので水球のハンガリー・ソ連戦は流血の騒ぎになった。地元のマレー・ローズが競泳で3つ金メダルをとった。中国はヘルシンキには参加したが、台湾の参加に抗議してボイコットし、このあと1984年になるまで参加しなかった。
第17回:ローマ(イタリア、1960年)マラソンで裸足で走ったエチオピアのアベベ選手が優勝した。ボクシングのライト・ヘビー級では、アメリカのキャシアス・クレイが優勝した。のちのモハメッド・アリである。ヨットでギリシャのコンスタンティヌス皇太子が金メダルを取った。
第18回:東京(日本、1964年)マラソンではアベベが2連覇した。初めて行われた柔道無差別級ではオランダのヘーシンクが優勝した。体操の個人総合ではチェコスロバキアのチャフラフスカが金メダルを取った。