神が進める「21世紀の宗教改革」

バチカン・ニュースが10日報じたところによると、欧州で最も豊かな財源をもつ教会、独カトリック教会で今年、叙階を受ける神父候補者数は修道院所属を除くと全27教区合わせても57人に過ぎないことが判明し、教会関係者にショックを与えている。

ドイツ教会での神父叙階式(2020年7月10日、バチカン・ニュースから)

独教会では昨年、叙階を受けた新しい神父の数は55人と最低記録だったが、今年はそれに次ぐという。2000年は154人が叙階を受け、聖職者の仲間入りをしている。その数が100人を超えたのは2007年が最後でその後は年々減少を続けている。

独カトリック教会中央委員会(ZdK)は、「昨年11人の神父が聖職を捨てたが、神父を辞める聖職者は増加してきている。カトリック教会の現状は危機的だ」と指摘している。ZdKのトーマス・シュテルンベルク会長は、「ドイツの教会は毎年、200人から300人の新しい神父が必要とされているが、現実はそれからほど遠い」と述べている。

独教会関係者によると、今年6月末までに25人の叙階式が行われた。その後、新型コロナウイルスの感染問題が出てきたために、叙階式が延期されてきた。10月にはヴュルツブルク司教区で1人の叙階式が予定されている。

また、フライブルク、フルダ、マインツ、パーダーボルン、そしてオスナブリュック大司教区でも今秋に叙階式が計画されているが、アーヘン、エアフルト, ゲルリッツ、そしてヒルデスハイムの各司教区では今年は叙階式がないという。

それでは聖職者不足をどのようにして解決すればいいのだろうか。ZdKは、「聖職者への道を刷新し、女性や既婚者の聖職者への道を開くべきだ」と主張している。すなわち、通称、Viri probati(ラテン語、相応しい男性)への道を開くべきだというわけだ。「既婚者と女性の叙階は教会を運営する上でも不可欠だ。そして聖職者という職務をこれまで以上に魅力あるものにしなければならない」というのだ。

聖職者の独身制見直しはドイツ教会だけの話ではない、全世界のカトリック教会で聞かれる。バチカンで昨年10月、3週間、開催されたアマゾン公会議で既婚男性の聖職の道について話し合われた。

公表された最終文書(30頁)では、「遠隔地やアマゾン地域のように聖職者不足で教会の儀式が実施できない教会では、司教たちが(相応しい)既婚男性の聖職叙階を認めることを提言する」と明記されている。

ただし、同提言は聖職者の独身制廃止を目指すものではなく、聖職者不足を解消するための現実的な対策の印象は歪めない。実際、最終文書では「聖職者の独身制は神の贈物」と改めて強調する一方、「多様な聖職者は教会の統一を削ぐものではない」と説明している。また、女性聖職者の容認、既婚男性の聖職叙階問題が含まれ、集中的に話し合われたが、同公会議では実質的な決定はなかった。

バチカン法王庁のナンバー2、国務長官のピエトロ・パロリン枢機卿は、「聖職者の独身制について疑問を呈することはできるが、独身制の急激な変化は期待すべきではない。教会の教義は生き生きとしたオルガニズムだ。成長し、発展するものだ」と述べ、「教会の独身制は使徒時代の伝統だ」と指摘、独身制の早急な廃止論には釘を刺した(「公会議『既婚男性の聖職叙階』を提言」2019年10月28日参考)。

近代教皇の中で最高の神学者といわれる前教皇べネディクト16世は本の中で、「神父の独身制の価値をおとしめる悪い嘆願や、芝居がかった悪魔のような虚言、時のはやりに押されて教会は揺さぶられている」と警告し、「私個人の立場から言えば、独身制は教会への神の贈物だ」と述べている。

ところで、現代の若者たちは神を求めなくなったのだろうか。文化は世俗化し、物質消費を中心としたワイルド資本主義社会となってきた。その上、教会で聖職者による未成年者への性的虐待事件が多発し、教会と聖職者への社会的信頼は完全に地に落ちた。若者の教会へのイメージは年々悪化している。教会の門を叩き、聖職の道を歩みだす若者が出てくると期待するほうが無理かもしれない。

それでは現代の若者は世俗社会、物質消費社会に満足しているのだろうか。そうとは思えない。若者の中には人生の目的、生きがいを求めて苦悩している者も少なくないはずだ。その点では昔の若者たちと変わらない。

新型コロナウイルスの感染拡大で経済活動は停滞を余儀なくされ、失業者は急増してきた。多数の情報に取り囲まれて生活しているが、進むべき未来像が見えない。そのような状況下で若者たちは神を求めるが、彼らはもはや教会にその答えを求めることはなくなったように感じる。

このコラム欄では何度か言及してきたが、教会、組織を中心とした神への信仰生活は終わり、各自が神との対話を模索する時代に移り変わろうとしているのではないか。

今年に入り、新型コロナ感染防止のため世界の教会は閉鎖に追いやられ、日曜礼拝はオンラインで行われてきた。信者たちは教会に行かずホームで礼拝する。6月に入り、規制緩和で教会は再び礼拝を行えるようになったが、参加数は依然、制限されている。この状況下で、家庭礼拝は近い将来、信仰生活の拠点となっていくのではないか。

カトリック教会はここ数年「聖職者の性犯罪問題」に対峙し、今年は「新型コロナ感染問題」に直面してきた。その結果、教会はその在り方を変えざるを得なくなったきた。興味深い点は、新型コロナは人と人のコンタクトを制限する一方、社会の最小単位の家庭で神との対話の機会を与えようとしていることだ。

神は悪事(聖職者の性犯罪)や感染症(コロナ禍)を通じて、現代人の信仰を再生させようとしている、ともいえる。神の荒治療だ(「新型コロナが進める『宗教改革』」2020年4月23日参考)。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2020年7月16日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。