ポツダム宣言に施されていた日本の受諾を遅らせる工作

75年前のきょう8月14日、我が国は二度のご聖断を経てポツダム宣言の受諾を決意し、スイス経由で米国にその旨を伝えた。7月26日に極めて異例な形で宣言が発せられてから2週間以上が過ぎていた。今も日本人の多くが、この宣言受諾の遅れが広島・長崎への原爆投下を招いたと信じている。

1945年8月14日、日本のポツダム宣言受諾を発表するトルーマン大統領(Wikipedia)

翌15日の玉音放送で国民は敗戦を知ったし、この日が終戦記念日とされてもいるので、8月15日を終戦と日本人が思い込むのも無理ない。だが、国際社会は、ミズーリ艦上で降伏文書に署名した9月2日を以て終戦とする(色摩力夫「日本人はなぜ終戦の日付を間違えたのか」)。

さて、ポツダム宣言には、日本がそれを直ぐに受諾しないようにするための巧妙な工作が幾重にもなされていた。それは大きく宣言の内容と公表の方法に分かれる。以下では、その工作の中身となぜ米国がそのような工作を施して、日本の宣言受諾を遅らせようとしたのかについて述べる。

米英ソの三首脳は45年2月のヤルタ会談で、既に見通されていたドイツ降伏の2~3ヵ月後にソ連が対日参戦するとの密約をした。ソ連への見返りは、今も返還交渉が続いている千島列島と南樺太のソ連引き渡し、満州での港湾や鉄道のソ連の権益確保などだ。

ヤルタ会談で記念撮影したチャーチル、ルーズベルト、スターリン(Wikipedia)

2ヵ月後の4月12日にルーズベルトが急死したことから、病身の彼をスターリンがヤルタに引き込んだとする論がある。が、対日戦終結に舵を切ったルーズベルト(前年12月にグルーを国務次官に昇格させ、三人委員会にも出席させた)がスターリンとの会談に意欲を持っていたとの論を筆者はとる。

というのも当時のルーズベルトは、「日本を負かすには18ヵ月と将兵百万の死傷者の覚悟がいる」と軍部から報告を受けていたし、「8月1日までに完成すると報告された原爆も、その数量や効果などが計り知れない段階にあった」からだ(「ヤルタ 戦後史の起点」藤村信)。

そのルーズベルトは急死して、ほんの80日前に副大統領になったばかりで、原爆開発はおろかヤルタ会談の中身すら知らされていなかった「偶然」大統領トルーマンは、同じ高卒だが議員経験が長く、戦時動員局長官として原爆開発に参画し、ヤルタにも随行したバーンズを国務長官に据えた。

実はバーンズはトルーマン上院議員に、自分を副大統領に推薦するよう依頼していた。が、4選を目指すルーズベルトはそのトルーマンを副大統領に指名した。バーンズには、世が世なら自分が今頃は大統領だったとの嫉みがあったろう。それが戦後の強硬な対ソ交渉に出て、トルーマンの怒りを買う。

ヤルタでバーンズは、後にソ連スパイと知れる国務長官補佐官アルジャー・ヒスやソ連シンパのハリー・ホプキンス大統領特別顧問が活躍したためか、或いは密約がルーズベルトとスターリンだけでなされた(チャーチルは事後承諾)からか、実は会議の機微をほとんど知らなかった。

密約に沿いモロトフ外相は4月5日、佐藤尚武駐ソ大使に日ソ中立条約を延長しない旨、通告した。条約に期限内の破棄規定はなく、終了は46年4月25日の満期か、またはその1年前までに自動延長しない旨の通告に限られる。なので、ソ連が満州と北朝鮮に侵攻した8月8日、その条約は有効だった。

ドイツでは4月30日のヒトラーの自殺によって政府が事実上壊滅、政府が機能しない中でドイツ各軍の五月雨式の降伏が続いた。最終的には5月9日(英国時間)に連合国軍司令官アイゼンハワー元帥とヨードル大将が無条件降伏文書に調印し、ドイツの降伏がなった。

ドイツ降伏の2~3ヵ月後の対日参戦を密約していたスターリンは、シベリア鉄道をフル回転させて赤軍の極東への移送集結を急いだ。英国や中国を目的とした武器貸与法をソ連にも適用していた米国も、海からソ連極東への軍事物資の移送を行った。

一方、日本ではヤルタ密約があった2月、戦況逼迫に伴う重臣の個別奏上が7日の平沼麒一郎を皮切りに始まった。が、これには内大臣木戸幸一の奇異な振る舞いがある。一つは近衛文麿の奏上時だけ侍従長に代わって自ら侍立したこと、他は重臣奏上について木戸日記で触れていないことだ。

近衛奏上文の中身は、英米世論は日本の国体変更には至っておらず、敗戦によって憂うべきはむしろ日本の共産革命で、欧州や東亜でのソ連による容共政権の樹立工作があること。そして軍部内一味の革新運動への懸念と、これを取り巻く一部官僚や民間有志が国体の衣を着た共産主義者であることなど、共産勢力に対する懸念を露わにしたものだった。

だが日本はこのソ連を仲介役と頼み、ソ連嫌いの近衛を天皇特使として訪ソさせようとする。この対ソ工作は5月の戦争指導会議で阿南陸相と米内海相が主張して始まった。すなわち米ソ離間策として、海軍が主力艦をソ連に与え、代わりにソ連から航空機とガソリンを得て、日ソ連合で米英に対抗しようという発想だ(大森実「戦後秘史2」)。

ヤルタ密約の「ヤ」の字も知らぬとはいえお粗末だった。斯くて7月12日の近衛訪ソの勅命は8月8日のソ連の対日宣戦布告で露と消える。

7月7日にオーガスタ号に乗船したトルーマンの日課は、毎夜のポーカー、スティムソン陸軍長官から渡されたグルーの宣言草案のバーンズとの鳩首検討、そしてリーヒ提督を加えた勉強会だった。スティムソンは一行から外されたが、別途ポツダムに先乗りした(チャールズ・ミー「ポツダム会談」)。

ポツダムで会談するチャーチル、ルーズベルト、スターリンの英米ソ3首脳(Wikipedia)

就任したての大統領と国務長官の関心は、唯一前任者が方針を決めていなかった原爆を使うことにあった。他方、グルーやスティムソンは日本に天皇の保持を許すなら、日本は名誉ある降伏をすると考えていたので、スティムソンは原爆投下の前に日本に降伏のチャンスを与えたがっていた。(前掲書)。

斯くてトルーマンとバーンズは、草案12条の「現在の皇室のもとにおける立憲君主制を排除するものではない」との条項を削った(鳥居民「近衛文麿黙して語らず」)。そして艦のアントワープ港到着の翌16日に入った原爆実験成功の第一報は、皮肉にもスティムソンからトルーマンに伝えられた。

これでソ連の参戦に依らずとも日本を降伏させられると確信したトルーマンは、日本によるポツダム宣言を遅延させるための二つの最後の仕上げを行った。

一つは、対日参戦国でないとの理由を持ち出し、会談の一方の主役スターリンを署名者から外し、蒋介石に差し替えたこと。日本の対ソ工作を知っていてわざとしたことだろう。これは安東政策局長に「宣言に参加していないソ連の態度が曖昧では処置に困る。暫くノーコメントで行こう」と言わしめる効果を生んだ。

他は異例な発表形式。それは26日夕刻にポツダムの米国代表団宿舎で報道陣にのみ行われ、公式ルートを介した日本送達はしていない。米国内へも、戦争の宣伝広告を担当するOWI経由で政府機関や報道に流された。日本側は、OWIが各基地の短波送信機で日本時間27日午前5時に始めた放送を、外務省情報室が傍受してそれを知る始末だった。

これでは鈴木貫太郎首相が軽視するのも無理はあるまい。そしてこれが「ignore(黙殺)」と誤訳され、原爆投下に繋がったと人口に膾炙するのだが、実は鈴木首相のこの時の正確な発言記録は存在せず、新聞報道や周辺の談話、そして鈴木が「顧みて他を言った」と書く回想記が残るのみだ。