21日午後1時ごろ、黄海(朝鮮半島西方)の北方限界線(NLL:朝鮮戦争休戦時に国連軍が設定した黄海における南北境界線)付近の海上で、韓国海洋水産部所属の漁業指導船の船員一人が行方不明になった。
これに関して、韓国国防部は24日、「さまざまな情報を分析した結果、北朝鮮が(NLLの)北朝鮮側海域で発見した韓国国民に対し銃撃を加え、遺体を焼くという蛮行を犯したことを確認した」と明らかにするとともに、「北朝鮮のこうした蛮行を強く糾弾し、これに対する説明と責任者の処罰を強力に要求する」との声明を発表した。
どうやらこの船員は、何らかの事情でこの漁業指導船から小型ボートか浮き輪などを使って、海上を北朝鮮方面へ向かった模様である。これを、北朝鮮の水産事業所の船舶に発見され、尋問された後に海軍の警備艇が現れ、この警備艇から銃撃され、その後「遺体を焼却された」ということのようだ。
それにしても、なぜ北朝鮮側は、流されてきた丸腰の民間人1名に対してこのような残虐な行動に出たのであろう。これを理解するためには、7月19日までさかのぼらなければならない。
7月19日、この約3年前に北朝鮮から脱出して韓国で暮らしていた人物が、軍事境界線を越えて北朝鮮の開城(ケソン)市に入った。この人物が北朝鮮に戻った詳しいいきさつは不明ながら、問題はこの人物が「新型コロナウイルスによる感染が疑われていた」という事実であった。
この越境事件の1週間後、7月26日になって北朝鮮の朝鮮中央通信は、「金正恩委員長が党中央委員会政治局の非常拡大会議を緊急招集し、新型コロナウイルスへの感染が疑われる北朝鮮脱出住民(脱北者)が北朝鮮に戻ったことに対する措置として、『最大非常(防疫)体制』に移行することを決めた」と報じた。また、同通信は、「金委員長が24日午後に開城市を完全封鎖し、同地区に『特級警報』を発令した」とも伝えている。
越境を許したことに加えて、これが新型コロナウイルスの感染が疑われる人物であると聞いて、金委員長の怒りは頂点に達していたのであろう。恐らく、越境を許した最前線部隊の指揮官らは重罰に処せられたのではないか。
この事件以来、韓国から越境してきた人間は、すべて新型コロナウイルスの感染者と見なし、「即座に射殺して死体は焼却せよ」との指示が最前線の部隊に出されていた可能性がある。
最前線を守る朝鮮人民(陸・海)軍などの兵士らは、ピリピリしていたことであろうし、この事件で警備態勢を最大限に強化されて休みもとれず、南(韓国)の人民を逆恨みして「越境者があれば血祭りにあげてやる」とばかりに手ぐすね引いて待っていたのではないか。そこに今回の船員は「のこのこ入って行ってしまった」ということなのだろう。
金委員長は、図らずも早期に「倍返し」が出来てさぞかしご満悦のことだろう。
興味深いのは、韓国軍が今回の(船員銃撃から遺体焼却に至る)事件を翌22日までにはほぼすべてを把握していたにもかかわらず、23日に(情報機関からのリークによって)報道でこの内容が流されてからも事実関係を明らかにせず、24日になってようやく全面的にこれを追認したというところである。
折しも、23日未明には、韓国の文在寅大統領が国連総会の一般討論演説において、「朝鮮半島の平和は北東アジアの平和を保障し、世界秩序の変化に肯定的に作用する」とし、「そのスタートは朝鮮半島終戦宣言である」と述べた。この日、韓国国防部がどの時点で文大統領に報告したかは不明であるが、文大統領にとっては最悪のタイミングで発生した事件であり、出来れば隠蔽したい情報だったのではないだろうか。
一方で、文大統領は現在、北朝鮮の諜報員や工作員を捜査する権限を、情報機関(国家情報院など)から切り離し、警察に移管するといった「情報機関の権限を弱めるための組織改編」を推進しているところである。8月には、韓国与党が「北朝鮮スパイを含む国内の共産主義活動に対する情報機関の捜査権を失くし、国内での情報収集を制限する」国家情報院法改正案を国会に提出している。
この大統領に一矢報いてやろうと情報機関がこの案件をメディアにリークしたのは、「当然の成り行きだった」ということなのではないか。
それにしても、文大統領がラブコールを送れば送るほど、「北朝鮮は極めて強硬な行動でこれに応える」というのが最近の南北の現状である。どうして、(今や韓国をまったく相手にしていない)金委員長に秋波を送るというような言動によって、「自ら墓穴を掘ってしまっている」ということに文大統領は気付かないのだろう。
このままでは、いずれ近いうちに、いずれかの内部または外部機関によって仕掛けられた大きな落とし穴にはまることになるような気がしてならない。まさにこの落とし穴こそが墓穴という事なのかもしれないが。