昭和天皇の肖像画の焼却は「住民の福祉の増進」?
地方自治法第一条の二で「地方公共団体は、住民の福祉の増進を図ることを基本として、地域における行政を自主的かつ総合的に実施する役割を広く担うものとする。」と規定されている。
昨年、物議を醸した「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展・その後」は補助金支出を始めとした愛知県の支援で成立した以上、この観点から検証されなくてはならない。昭和天皇の肖像画を焼却することがいかにして「住民の福祉の増進」に繋がるのか、大村知事には説明責任がある。
しかし、現在に至るまで大村知事から「住民の福祉の増進」の観点から肖像画の焼却について説明されることはなく「表現の自由」を根拠に正当化するばかりである。
それどころか「表現の自由」を名目とした特定職業(芸術家)への利益供与を公然と主張している。
現在、大村知事へのリコール運動が展開されているが、その理由は「表現の不自由展・その後」が地方自治法の基準(住民の福祉の増進)に達していないとみなされているからである。
大村知事が繰り返し主張する「表現の自由」だが、あるイベントへの公的支援の検証が「表現の自由」に抵触するというならば、そもそも公的支援の対象にならない。検証不可能のものに税金を支出するなど論外だろう。
この次元ならば過去のあいちトリエンナーレにも何か問題があったのではないかと想像してしまう。調べてみると「あいちトリエンナーレ2016」では鳥の展示を巡りちょっとした騒動があったようだ。(参考:芸術祭「作品」の鳥、飼い主募る 死亡や不明が問題化 2016年10月27日付け朝日新聞)
過去にこういう騒動があったにもかかわらず大村知事は「表現の不自由展・その後」の騒動を引き起こしたわけだから、実行委員会会長としてマネジメント能力は極めて低い。
大村知事の「表現の自由」の強調は、自身の能力不足を誤魔化すための方便に過ぎない。
そしてこのリコール運動に対してはどういうわけか反権力を標榜する作家、ジャーナリストほど大村知事を支持している。
彼(女)らは愛知県知事という権力に迎合し、芸術家という特権階級の創出を企てる者である。規制と支援の区別もできない知性の持ち主でもある。
大村知事を支持する作家、ジャーナリストの「反権力」は国民(住民)のためではなく彼(女)ら自身のためである。自分を大きく見せたいがために「反権力」を標榜しているだけ、権力欲旺盛だが権力の一員になる能力がなく、だからといって自分を庶民、一般人と認識できないだけである。
日本社会でこういう人間は、少数だろうが結束すれば他人に一定の圧力を加えることはできる。
大村知事の役割はこのような人間から愛知県民を守ることだ。しかし、大村知事のやっていることは真逆で招き入れている。リコール運動を巡っては物理的トラブルがあったようだが(参考:9月20日東海テレビ)、これは大村知事の姿勢とは無関係といえまい。当たり前だが「反対の意思表示」を求められないリコール運動を「妨害」するなど尋常ではない。
また「表現の不自由展・その後」では慰安婦の少女像も展示されたことから愛知県への外国人活動家の流入の危険も高めたと言える。
大村知事のリコール運動で問われているのは「地方公共団体の責務」「表現の自由」「芸術・文化振興政策」に限られない。健全な市民社会から外れた左翼活動家から平穏な日常を守ることも問われている。