ほろ苦い複雑な味 ~ 霞が関と『半沢直樹』

朝比奈 一郎

makoto.h/写真AC

つい先日、久々に夕方過ぎに霞が関にいたこともあり、懐かしの長崎飯店を訪ねて皿うどんを食べた。

虎ノ門ヒルズのビジネスタワーもオープンし、新駅もできるなど、霞が関のすぐ横の虎ノ門地域は驚くほどに再開発が進んでいる。一瞬、「ああ、長崎飯店ももうないかな」と危惧したが、同地域のビルの谷間で生き残っている蕎麦屋の名店「砂場」などと同様、変わらぬ姿でそこにあった。

この長崎飯店の皿うどん、経産省在職中に何度食べたか数えきれないが、実は、店で食べたことは、おそらく片手におさまる程度だ。ほとんど、残業時に出前で注文し、オフィスで食していた。食事というものは、記憶と共に食すと味わいが変わる。美味であることは間違いないが、私にとって、この皿うどんは、色々な思い出が交じり合った「理不尽かつ懐かしい」味がする。

入省1年目の時、職場中の先輩方(4~5名ならまだしも、10~15名分頼まねばならないこともしばしば)の残業飯の出前を毎晩取らねばならず、一人一人に「皿うどんですか、ちゃんぽんですか。大盛りですか、、、」と聞いて回って、注文をしなければならなかったり、出前を取ったものの、コピーやらホチキス止めやらに追われて、冷え切った皿うどんを深夜に食べなければならなかったりと、今でも皿うどんを食する度に、理不尽な仕事に涙した悔しさや懐かしさなど、記憶と共に複雑な味がする。

複雑な味と書いたが、私自身がこの仕事上の「理不尽」ということについて、何とも複雑感情を抱いているからに他ならない。政策づくりに燃える若き官僚が、毎晩出前を取るのに時間を取られたり、大量のコピーをしなければならなかったり、政策実現のためとはいえ不毛な各省間での争いの電話などに追われて食事もとれなかったり、ということ自体は、まさに「理不尽」であり、変えて行かなければならない。

政策でも日々の業務でも、合理的に考えて正しいことを実現しなければならず、実際、私自身、霞が関を変革すべく「プロジェクトK(新しい霞ヶ関を創る若手の会)」を立ち上げて、業務時間外に集まって改革案を練り、実名入りで出版するなど、若き官僚仲間たちと国益のための組織改革運動をしたりもした。

しかし、同時に、霞が関を離れて起業をし、零細企業の親父として曲がりなりにも10年近く何とか生き残ってみると、まさに理不尽さを多分に含む霞が関での約14年にわたる業務経験こそが、自分を強く鍛えてくれた、とも思う。

戦争といういつ命を奪われるかも分からない究極の理不尽状況の体験者が、戦後の日本の高度成長を支えつつ、そうした世代が社会の中核からいなくなって、理不尽に耐えられない「ひ弱な」世代になってから、どんどん、この国・社会が凋落して行っているという外形的真実があるが(もちろん、因果関係の証明はできないが)、逆説的ながら、霞が関の理不尽さが、厳しい運動部経験もなく、文弱でひ弱だった私を鍛えてくれた、という感謝の気持ちも強い。

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やはりつい先日、もはや社会現象と言っていい大ヒットドラマの『半沢直樹』の最終回を見た。大和田常務や箕部幹事長や黒崎検査官の顔芸をはじめ、いるだけで存在感のある中野渡頭取や、もちろん「倍返しだ」の決め台詞の主人公半沢次長など、もはや、現代の歌舞伎・時代劇と言って良い様相である。

「半沢直樹」TBS番組公式サイトより:編集部

来週から半沢ロスになってしまうくらい、毎週、つい食い入るように家族で見てしまったが、人気ドラマや人気映画には定番の恋愛・お色気の要素は微塵もないのに、どうしてこんなにも私を含む日本人(中国でもそれなりに人気だとの説も耳にしたが)の心を捉えるのか。やはり、由美かおるの入浴シーンくらいしかない水戸黄門の現代版だと考えると確かに分かりやすいのだが、この「勧善懲悪→スカッと」説だけでは、ちょっと納得がいかない自分がいた。

そんな中で皿うどんを食べて、思い当たったのが、「ああ、半沢直樹は、私にとっての皿うどんの味なんだ」ということである。つまり、ドラマ『半沢直樹』は、さまざまな理不尽(社内政治の圧力・不自然な人事異動等)に直面して、苦しみながらも、それを跳ねのけるというミクロの勧善懲悪だけで人気を博しているのではない。そういう理不尽を通じて、むしろ理不尽があるからこそ、どんどん成長して大きくなり、頭取の道に近づいていくというマクロの成長ストーリーに共感している人も多いのではないか。

理不尽はどんどん取り除いていくことが大事であることは論を待たないが、最後まで絶対になくなるものではない。その決して消えることのない理不尽に立ち向かえる人間を作るのもまた理不尽である。「無菌状態」で育った人材は、ひとたびその「無菌状態」から出たら立ちどころに倒れてしまう。

別の表現を使えば、合理によって非合理を正しつつ、しかし、同時に、非合理≒手触り感のようなものを大切にして成長しているという両義的存在なのだと思う。半沢直樹は。実際、その非合理・理不尽部分の象徴とも言えるが、彼自身は、とにかく足で稼いだり、膨大な資料を徹夜で調べたり、大事にしている人間関係から解決の糸口を探ったりと、割と前近代的な手法で事に当たることが多い。

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今クールのTBSドラマは『MIU404』など、ヒット作が多いと言われているが、やはり20%近い視聴率で話題になったのが『私の家政夫ナギサさん』である(余談だが、TBSは真面目にこうしたドラマの海外展開を真剣に考えて欲しい。韓流に負けないように)。

『私の家政夫ナギサさん』TBS番組公式サイトより:編集部

妻はもちろん、娘や息子まで喜んで見ているので、ついつられて見だして全話見てしまったのだが、なぜ、この時間帯のドラマとして空前とも言える高視聴率をたたき出しているのか気になって専門家の分析を聞いてみた。感心したのは「ダブル・コア」という考え方だ。

つまり、働く女性に「家政夫(男性)」がいると本当に助かるということで、働く女性層の共感を得つつ、同時に、ある「できるオジさん家政夫」の夢が「お母さんになることだった」という設定で、専業主婦層の自己肯定感も満たしており、働く女性と専業主婦と、どちらもコア視聴層として捕まえているというわけだ(ついでに、ドラマ視聴層としては中核ではないが、若い女性との恋愛を夢見るオジさん層も捕まえてのトリプル・コアと言えるかもしれない)。

形は違うが、理不尽を打ち破って合理を大切にする心と、理不尽や非合理を前提としての成長や解決を望む心の両方を捉える『半沢直樹』同様に、相矛盾する二つの考えをうまく包摂していると言える。

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世界も社会も個人も、ある意味でどんどん複雑化している中で、難しいものを単純に伝えるだけの「ごまかし」の時代は終わったのかもしれない。複雑なものを複雑なままに伝えること、またそれを受け止めることの大事さ。「選択と集中」とばかりに、分かりやすさだけを求めるのではなく、物事を正しく・幅広くとらえることの重要性。

手前味噌ではあるが、間もなく10周年を迎える青山社中は、少ない人数で、日本の活性化のために、人材育成・地域活性・政策づくりのサポート・海外展開支援などを推進し続けている。益々複雑に頑張っていきたいと感じた次第である。