中国人民が気づかない全体主義の欺瞞と危険性 --- 藤谷 昌敏

政策提言委員・元公安調査庁金沢公安調査事務所長 藤谷 昌敏

中国メディアは、

「習近平主席は、突然の新型コロナウイルス感染症に対して、世界各国と協力して困難を克服し、世界の感染症対策に知恵と力の面で貢献した。中国は感染症予防・抑制の人民戦争、全体戦、阻止戦をただちに展開し、1ヵ月余りで感染症蔓延の勢いをひとまず抑制し、2ヵ月前後で国内の1日の新規感染者数を1桁台に抑え、3ヵ月前後で武漢と湖北の防衛戦において決定的な成果をあげた。さらに一部地域の集団感染の撲滅戦を何度かにわたって繰り広げ、全国の新型コロナウイルス対策において重大な戦略的成果を収めた。そのうえで、中国は感染症予防・抑制と経済・社会発展の取り組みを計画的に推進し、生産と生活秩序の回復にしっかりと取り組み、顕著な成果をあげた。中国の感染症との闘いは、中国の精神、力、責任感を存分に示した」

などと中国政府の対応と成果を自画自賛した。

国連で演説する習近平(2020年9月、国連公式サイト:編集部)

中国政府の発表によれば、中国は迅速に新型コロナウイルス封じ込めに成功し、経済を回復させた。4~6月の第2四半期のGDP伸び率は3.2%、上半期全体の消費支出は前年比-9.3%だったが、6月の社会消費品小売総額は-1.8%とほぼ前年水準に戻りつつある。乗用車の生産と販売は、コロナ禍により4月まで大幅にマイナスだったが、6月は前年比で生産が12.2%増、販売は1.8%増と増加に転じた。

経済の回復は7月になり大きく回復し、コロナ禍に対応して、医療製造業投資は14.1%増、電子通信設備製造業投資は7.3%増、電子関連サービス業投資は26.4%増、科学技術・ソフトサービス業投資は24.4%増加した。これらの原因は、コロナ禍で在宅勤務の拡大やオンラインに伴う機器やサービスの増加など、これまで以上に広範囲にオンラインサービスが拡大したからだとされる。

全体主義の欺瞞

日本においても、中国政府寄りの論者は、中国の新型コロナウイルス対策成功の要因は、「政府の武漢封鎖の即決」「情報化社会の進展」「中国の体制と法制」などにあると指摘する。

さらに「日本では、中国政府は独裁や強権政治だとよく言われるが、それだけで武漢封鎖はできなかったし、新型肺炎は終息しなかっただろう。その成功の裏には、武漢封鎖を決断した政治と政治家への国民の信任がある」と主張している。しかし、それは本当に信任と言えるものなのだろうか。私は、そこに全体主義の巧妙な罠があると思う。

政治哲学者ハンナ・アーレントは、「全体主義の起源」の中で、「全体主義は国家ではなく、大衆運動である」と定義し、

「全体主義運動は、自らの教義というプロクルテスのベッド(ギリシャ神話の故事、容赦ない強制や杓子定規の意味)に世界を縛り付ける以前から、一貫性を具えた嘘の世界を作り出す。この嘘の世界は現実そのものよりも、人間的心情の要求に遥かに適っている」

と述べた。つまり、不安と恐怖に苛まれた大衆は、全体主義が構築した空想世界に逃げ込んで安堵感を得る。それは現実を自分たちが見たいようなものに変化させてくれる虚構の世界だ。

中華人民共和国の歴史を振り返れば、革命当初、相次ぐ戦乱と貧困に喘いでいた大衆は、中国共産党が作り上げた平等と繁栄という虚構の中に逃げ込み、ブルジョア階級を倒せば夢の世界がやってくると思った。

天安門広場で毛主席語録を掲げる紅衛兵(1967年、Wikipedia:編集部)

だが、ブルジョア階級の手先となっていたのもまた大衆であり、大衆同士の虐殺と刑罰が各地で繰り広げられた。革命が成就した後、それまでのブルジョアが共産党に代わっただけで、大衆が置かれた環境は一向に変わらなかった。中国共産党は、毛沢東理論を繰り返すことで、大衆を洗脳し続け、いつか大衆が夢見る世界が来ることを信じさせた。その後の中華人民共和国の歴史は、大衆の血で血を洗う人類史上稀にみる大虐殺の歴史である。

習近平政権を支持する中国人民

2020年7月、ハーバード大学ケネディスクール・アッシュセンターは、2003年から2016年にかけて、中国国内で31,000人以上の都市住民や農村住民と直接対話して、中央政府、地方政府、環境保護などについての満足度を聞き取った。

その報告書は、注目点として「地方政府よりも中央政府に対する満足度が高いこと」「農村部の方が政府への満足度が高いこと」「習近平国家主席による反腐敗運動を高く評価していること」などを挙げ、

「中国市民は,肯定的にせよ消極的にせよ、物質的福祉における真の変化に反応する傾向があり、経済成長の鈍化及び自然環境の悪化によって現在の高い支持が損なわれる可能性はある」

と指摘した。

この報告書が指摘するように中国の大衆は習近平政権を強く支持しているようだ。そして、中国の大衆は、習近平政権が提唱する、米国に代わって世界のリーダーになり、中国最大の版図を回復するという「中国夢」をまさに夢見ている。

習近平氏(日中首脳会談、官邸サイト:編集部)

大衆は、その偉大な夢により、大きな代償を強いられていることに気づいていない。その代償とは、全体主義国家特有の「都合の悪いことを隠蔽する体質」「国家への忠誠の強制」「言論の自由の制限」「個人より全体の利益優先」「個人の私生活の国家への従属」などである。これらこそ、人類が忍耐と苦難を乗り越えて、やっとつかみとった基本的人権を無視したものに他ならない。

全体主義の対極にある民主主義は、議会での民主的審議を重んじ、寛容と協力と譲歩で成り立つ。危機感を持った大衆にとっては、決定の速度は遅く、その交渉力は弱く見える。大衆が期待するのは強力なリーダーシップを発揮する政治組織と人間である。敵に対して、攻撃するか降伏するかなど、どちらかの単純な発想を大衆は好むが、この単純な解決策こそが全体主義の罠である。しかも大衆とは無知蒙昧な徒だけを言うのではなく、知識も情報も持った者も含む。そうした人間たちが自分たちは正義だと信じて行動を起こした時、それは誰も止めることができない強大な弾圧の波となる。

藤谷 昌敏(ふじたに まさとし)
1954年、北海道生まれ。学習院大学法学部法学科、北陸先端科学技術大学院大学先端科学技術研究科修士課程。法務省公安調査庁入庁(北朝鮮、中国、ロシア、国際テロ部門歴任)。同庁金沢公安調査事務所長で退官。現在、JFSS政策提言委員、合同会社OFFICE TOYA代表、TOYA危機管理研究所代表。


編集部より:この記事は一般社団法人 日本戦略研究フォーラム 2020年9月28日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方は 日本戦略研究フォーラム公式サイトをご覧ください。