『「大人」とは「本当のことをわざわざ言わない人々」』(20年8月14日)と題されたブログ記事で筆者は、『「人間関係のマサツ」を避けて立ち回ることこそ、世渡りの本質だ』として、『「話せばわかる」という言葉は美しいが、残念ながら、人間同士は話してもわからないどころか、話したら殺し合いになることもある』と述べられています。
そして本記事は、次のように結ばれています。
人を傷つけない「大人」は多くの人にとって望まれる。真実かどうかよりも、「主観的な世界」を心地よくしてくる人のほうが、社会的に歓迎される。「知りたくもないこと」を本人に突きつけて「現実を見せる」などというのは、単なる下品な悪趣味であり、エゴである。
率直に申し上げて、私には余りピンとこない見解に感じられます。上記は、単なる事勿(なか)れ主義に過ぎないのではないでしょうか。江戸時代の狂歌に、「世の中は左様しからばごもっとも、そうでござるか、しかと存ぜぬ」というのがあります。此の「八方美人主義」的な処身法は「当時人気の幸福への処世術」だったわけですが、正に之も主体性の喪失そのものと言えましょう。
いま私が「大人とは?」と問われれば、「独立自尊」ということだと答えます。地位や金あるいは妻子を頼って生きている人は、例えば「退職して地位をなくしたら、自分はどうなるのだろう…」とか「家内が居なくなったら、自分はどうなってしまうのか…」といったようになってしまいます。
そうしたもの一切を頼らずに、正に「一剣を持して起つ」宮本武蔵のような「絶対」の境地に到る位の姿勢を持って、自ずからに足りて何ら他に期待することなく徹底して自分自身を相手にして生きるのが大人だと思います。そうして主体的に生きている人は、自己の絶対を尊ぶという「独尊」の世界にあって、「互尊」という感情を他の独尊の人に対して抱くものであります。
付和雷同する小人的な人は自分の主体性や自分の明確な主義主張を持たない人で、仮に持っていたとしてもそれを明らかにせず都合に応じて調子を合わせるような人で、私自身こうした類の人間は余り好きではありません。私は、人に厳しい事柄でも自分の考えをはっきりと言葉にすべきだと思っています。その上で人の考えが違っていれば、それはそれで尊重し自分自身で今一度検証して、それでも自分が正しいと思ったらば、堂々と発言して行くのが大人だと思います。
同時にまた、我々の人間社会は秩序維持を図りながら共存して行かねばならない、といったことをきちっと分かっている必要がありましょう。「人間は社会的動物である」とアリストテレスが言い、「人間は常に弧に非ずして群である」と荀子が述べている通り、人というものは他人や社会の干渉なしには存在し得ない、自分一人では生き得ない動物です。自由があれば片一方で規律もあるわけで、人に迷惑を掛けぬよう道徳というものをきちんと持っているのが大人だと思います。
此の道徳ということで私は嘗て『PRESIDENT』の取材を受けた際に、『普段、顕加(けんが:目に見える何かをして頂いたことへの感謝)だけでなく冥加(みょうが:表に表れない、見えないものへの感謝)の世界に至るまでありがたいという気持ちで生きている人は、「ありがとう」という言葉がスッと出る。相手を敬い、拙い自分を恥ずかしく思う気持ちがあるからであり、だからこそ人は成長する』と述べたことがあります。
人という独り立ちする迄に大変長い時間を要する動物にとって、その間醸成された感謝の念即ちありがたいという気持ちこそが、社会を生きて行くための大事な道徳的要素になって行くのです。そして大人たるべく人間は、社会に出て後も全てに対する冥加も含め、あらゆる事柄に感謝する気持ちを常々持たねばならないということです。
編集部より:この記事は、北尾吉孝氏のブログ「北尾吉孝日記」2020年10月9日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はこちらをご覧ください。