今年で濃厚交流26周年 中川淳一郎と語り合ったこと

中川淳一郎がウェブ編集者を引退。セミリタイアした。と言いつつ、執筆業がかなり忙しそうだけど。今月いっぱいで東京を出て、地方に移住する。

先日、六本木の東京ミッドタウンのスーパーでばったり会い。とてもいい顔をしていた。15年ぶりに見た笑顔というか。何か解き放たれていた。そりゃそうだ。毎日の原稿チェック、入稿作業、さらにはPV数への不安、炎上などのリスク管理という常に緊張感に満ちた日々から解放されたのだから。彼がネットニュース、ウェブメディアに本格的に関わるようになったのはちょうど14年前だ。だから15年ぶりの笑顔という表現はまったく間違っていないだろう。

中川淳一郎
光文社
2009-04-17



彼の出世作『ウェブはバカと暇人のもの』(光文社新書)で大ブレークしたのは11年前だ。それまでも、メディア露出はあったが、ネットのご意見版として、キャラのたったウェブ編集者としてブレークしたのはこの本だった。

中川淳一郎がする「珍しい行動」というのがいくつかある。その一つが「○○さんを紹介してくれ」というものだ。2008年頃、ネットニュースに関する知見がたまりだし、ぜひ、世に問いたいことがあるから、「編集者を紹介してくれよ」と言われた。当時、一緒に仕事をしていた光文社新書の若きエースだった柿内芳文氏を紹介した。柿内氏は最初の打ち合わせで企画にGOを出したという。

まさに、この本は賛否を呼び、飛ぶように売れ。一方、この本が売れた頃から、お互いに忙しくなり。以前は2008年などは私が体調を崩していたこともあり、心の健康を少しでも回復するために、彼に毎週会っていたのだが。会うのは、イベントの会場や、著者・編集者クラスタの飲み会などということが増え、完全にプライベートな時間に会う機会が減っていったのもまた事実だ。

彼は思い出したくないだろうが、ある意味伝説となり語り継がれている2013年のTBSラジオ「荻上チキSession-22」に共演した際の泥酔暴走騒動のときも、皮肉なことに、番組終了後の反省会(説教会とも言う)で、久々に2人でゆっくり0時から3時まで話したときに、私は「友人」それどころか「親友」「盟友」と言いつつも、その頃の彼を全然知らなかったことを猛反省した。

彼にとっての「珍しい行動」といえば「夢やビジョンを語る」ことである。彼はそんなことをせず、14年間、ひたすらネットニュースに向き合い続けた。しかし、2015年の春、ちょうどその年、私は大学の専任教員になったのだが。彼から夢、ビジョンのようなものを珍しく聞いた。それは、2020年の東京五輪でネットニュース編集者を引退し、セミリタイアするというものだ。

そして、この夏、その日がやってきた。東京五輪は延期になったけれども。今月いっぱいで東京を去る。

そんな彼のBon Voyage会を我が家で開いた。実に久々に、周りに他の著者や編集者がいない、完全にプライベートな場だった。しんみりする場にはならず。お互いの家族も参加し。実に楽しい場だった。絶大なる経済力で豪華な食材を振る舞う、なんてことはせず、私の故郷の名物や、我が家の普段の家庭料理を振る舞うことにした。3歳の娘が「なかがわさん」と名前を呼んでいる様子を見て胸がいっぱいになった。私は酒を飲まないので、クルマで送迎したのだが、車内ではもちろんVAN HALENだった。これまた彼の予想どおりだったようで。

彼が突然「動画、とろうぜ」と言い出した。その場で25分間、打ち合わせゼロで語り合った動画がこちら。ここでも彼は珍しく夢、ビジョンを語っており。さらには「日本を良くしたい」という言葉まで飛び出し。「あぁ、編集者を引退した中川、いい感じになっている」と思った次第だ。ぜひ、観て欲しい。元気が出ると思う。

私たちはびっくりするぐらい考えが合わない。政治的スタンスから、日々のライフスタイルまで合わない。だけど、仲が良い。「ソリが合わないが、ノリが合う」そんな関係だ。私たちのお世話になった人たちでいうと、米倉誠一郎先生と楠木建先生の関係がそうだった。逆にノリが合わないが、ソリが合うのが野中郁次郎先生と竹内弘高先生か?

常にいつも彼が数歩前を歩いていてくれたから、私はフリーランスになっても、著者活動をしていてスランプやトラブルがあっても、いつも安心だった。そんな彼が地方に旅立つのはもちろん寂しいが、とはいえ、何かこう、ワクワクが大きく。

奴のこれからが楽しみだ。ありがとう。


編集部より:この記事は千葉商科大学准教授、常見陽平氏のブログ「陽平ドットコム~試みの水平線~」2020年10月13日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。