パリのテロ:イマームが最初に教えるべきことは

長谷川 良

「彼は死んでいませんから、そんなに悲しまないで下さい」と主人を亡くしたばかりの若い婦人に語ったとしても慰めにはならないだろう。亡くなった後、行く世界などを信じていない世代の人ならば、「こんな時にバカなことを言わないで下さい」と逆に叱咤されるかもしれない。しかし、殺せばその人間は永遠にいなくなると信じてきた殺人者にとっては「人は死なない」と聞けば、驚くばかりか、恐ろしくなるだろう。「自分が今殺した人間はどこにいるのか」という思いが湧いてくるからだ。恐ろしさのあまり罪を告白する殺人者が出てくるかもしれない。

▲テロ現場を視察したマクロン大統領(2020年10月16日、フランス大統領府(エリゼ宮殿)公式サイトから)

パリ近郊の中学校の歴史教師が16日午後5時頃(現地時間)、18歳のチェチェン出身の青年に首を切られた殺人事件はフランス国民に再び衝撃を与えている。殺害された教師は授業の中でイスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を描いた週刊誌を見せながら、「言論の自由」について授業をしていた。

警察に現場で射殺された犯人はモスクワ生まれのチェチェン人だ。彼は現場で「神は偉大なり」と叫んでいた。警察当局はテロ事件として捜査に乗り出している。フランスのメディアによれば、犯人の両親、友人を含む11人が重要参考人として尋問を受けているという。

話したこともなく、知り合いでもない教師を殺した青年テロリストはその直後、警察官に射殺された。殺し、そして殺されてしまった。そのテロリストのことを考えていた時、先の「人間は死にません」という話を思い出した(「人は死んだとしても生きている」2019年10月15日参考)。

アラーを偉大と信じるイスラム教徒の青年テロリストは人間は殺せば永遠にいなくなると信じていたのだろうか。信じていたとすれば、イスラム教徒として基本的な内容をまだ学んでいないことになる。

人の「心」はどこにあるかで昔から議論があった。珍説では、人間の心は手にあると主張した学者がいた。科学が発展するのにつれ、「どうやら心臓付近ではないか」という説が支配的となった。そして脳神経医学の発展もあって、人間のマインドは頭部にあるらしい、と考え出されてきた。

人間が死ぬとその人の体重が平均2・5グラム軽くなるというから、人間のマインド、宗教的に言えば、魂は2・5グラムだと主張する学者もいる。いずれにしても、人間のマインド探しは昔からさまざま学説を生み出してきたわけだ。

18歳のテロリストは教師の首を切って殺した。そのやり方が残虐だったこともあって、パリっ子はショックを受けた。いつものように現場に駆け付けた若い大統領、マクロン氏もかなりショックを受けた表情で記者会見に応じていた。

フランスでは2016年7月、北部のサンテティエンヌ・デュルブレのローマ・カトリック教会で2人のイスラム過激派テロリストによるアメル神父(85)を人質とするテロ事件が発生した。テロリストは特殊部隊によって射殺された。神父は首を切られて殺されていたことが明らかになると、フランス全土に大きな衝撃を与えた。21世紀のフランスで中世時代のような殺人事件が起きたという衝撃でもあった(「仏教会神父殺害テロ事件の衝撃」2016年7月28日参考)。

教師殺害テロ事件と同じように、2人の青年テロリストは老神父の首を落とせば、殺せると信じていたわけだ。ちなみに、アメル神父は1年後、殉教者としてフランシスコ教皇に聖人に列聖されている(「あの日から『聖人』となった老神父」2017年7月30日参考)。

首を切る行為は、その頭部にマインドがあり、そこがイスラム教を侮辱する思いや言動が湧いてくる異教の神の住処だと考えているからだろう。首を落とせば、異教の神の住処が壊滅される。殺すことが目的だったら本来、拳銃のほうが素早いが、イスラム過激派テロリストは「異教の神の住処を破壊しない限り、意味がない」と考え、首を切り落とすという残虐な犯行に及ぶわけだ。

2015年1月7日午前11時半、パリの左派系風刺週刊紙「シャルリー・エブド」本社に武装した2人組の覆面男が侵入し、自動小銃を乱射し、建物2階で編集会議を開いていた編集長を含む10人のジャーナリスト、2人の警察官などを殺害するというテロ事件が発生した。

「シャルリー・エブド」誌は、2011年と12年にイスラム教の預言者ムハンマドを風刺した画を掲載。13年には「ムハンマドの生涯」と題した漫画を出版した。イスラム過激派グループからは報復の脅迫メールを何度も受け取り、警察側は警備を強化していた矢先だった。

その蛮行を聞いたフランスの穏健なイスラム法学者(イマーム)は当時、ジャーナリストの質問に答え、「テロリストは本当のイスラム教信者ではない。イスラム教はテロとは全く無関係だ。イスラム教はテロを許してはいない」と繰り返した。

一方、西側ジャーナリストは「世界でテロ事件を犯しているテロリストは異口同音にコーランを引用し、アラーを称賛している。それをイスラム教ではないという主張は弁解に過ぎない。彼らはイスラム教徒だ」と反論した(「“本当”のイスラム教はどこに?」2015年1月24日参考)。

当方は、イスラム法学者の意見は正しいと思うが、「人は死ぬことがない」という事実をイスラム教徒に明確に教えていないのではないかと懸念する。人は殺してもその魂は死んでいないことを理解できれば、テロで多くの異教徒を殺しても意味がない。テロはダメだという前に、人は死なない存在であることを信者たちに教えるべきだろう。

無神論的唯物思想の最終目標は、「人間は物質からできた存在だから殺せる」ということを信じさせ、互いに殺しあうように仕向けることだ。宗教界にも知らず知らずのうちに唯物論的思想が広がってきている。異教徒を殺したとしても、天国行きは保証されてはいないのだ。

異教徒を抹殺することは出来ない。問題は彼らとどのように共存し、理解しあうかだ。デンマークの哲学者セーレン・キェルケゴールが「愛したい」という以上に、「愛さなければならない」という点に重きを置いていたことは正鵠を射ている。

多くの人を生前殺した殺人者は死んだ後(?)、自分が生きていることに気が付く。同時に、自分の周囲には生きていた時に殺した数多くの人々が訊ねてきて、「あなたはなぜ私を殺したのか」と恨みをもって追及してくる。何度も何度も同じ質問をする。殺人者はそれを避けるために逃げるが、行く先々で彼らは現れ、追及してくる。彼は死んでいなかったが、彼らも死んでいなかったのだ。

この「生命の仕組み」が信者たちだけではなく、全ての人々に理解されれば、紛争も殺人、いがみ合いも少しは減るのではないか。これは宗教でも信仰の話でもない。人間が本来、永遠に生きるように創造されているからだ。

「人は死なない」が、肉体を持って生きている時は貴重だ。その期間、愛を吸収してその魂を成長させることができるからだ。その大切な時を突然失ったという意味で、パリの教師にとっても、18歳の青年テロリストにとっても無念だろう。

なお、パリのテロ事件が提示している「言論の自由」については、「人には『冒涜する自由』があるか」(2020年9月5日)と「今こそ“第2のフランス革命”を」(2020年9月29日)を読んで頂きたい。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2020年10月19日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。