学術会議問題:公務員人事、直視したい「政治的事務」という現実

高山 貴男

東京・六本木の日本学術会議(編集部撮影)

政治を超える政治的事務

学術会議の任命拒否を巡る議論では野党と左派マスコミは同会議の使命・目的には触れず手続き論の話ばかりしている。彼(女)らは菅首相が内閣の行政事務の全てに関与できないことを知ったうえで手続き論に固執しているのだろう。

野党と左派マスコミが固執する手続き論は特別職とはいえ学術会議会員が公務員である以上は公務員人事の話でもある。

公務員人事を語る上で参考になるのは東京裁判で刑死した武藤章元陸軍省軍務局長の弁である。「何を唐突に?」という当惑の声が聞こえてきそうだが、容赦願いたい。

武藤は東京裁判で下記のように述べた。

陸軍大臣は閣議で決定した事項を実行せねばなりません。これがためには政治的事務機関が必要であります。軍務局は正しく此の政治的事務を担当する機関であります。軍務局の為すのは、政治的事務でありまして、政治自体ではないのです。

注目すべきは「政治的事務」という言葉である。武藤の弁では政治的事務は閣議の決定事項を具現化するための作業であって政治に該当しない。だから軍人の政治活動を禁じた「軍人勅諭」にも反しないのである。

武藤は政治的事務として「閣議で決定した事項」を挙げているが、これはあくまで例であり閣議決定前の事務作業も含まれているはずである。

このことを踏まえたうえで政治的事務について武藤に代わって改めて説明すれば、政治的事務とは法案・予算作成、関係省庁との折衝、帝国議会対策その他細々とした事務作業である。

戦後の代表的知識人たる丸山眞男は武藤の「政治的事務」発言に対して皮肉を込めて「これが武藤の軍務局長としてのめざましい政治的活躍の正当化の根拠である」と評したように政治的事務とは他人からみれば政治と変わらないし、仮に政治と政治的事務は区別されるとしても武藤の行った政治的事務、すなわち昭和陸軍の政治的事務は政治を超えてしまった。そして、それが大日本帝国を破滅に導いたのである。

大日本帝国の教訓

戦争体験者たる丸山が武藤の政治的事務に無責任さを感じるのは当然であるが、現代の我々はどうだろうか。必ずしも政治的事務を否定できないのではないか。

実際、国務大臣は自らが管理する行政事務の全てに関与するわけではないし、その予定もない。

国務大臣は細々とした事務作業は行わない、細々とした事務作業を行うのはあくまで公務員である。そうである以上、公務員は政治的事務から完全に逃れることはできない。

「政治」という用語が出てくるとどうしても「全体の奉仕者」に求められる政治的中立に抵触してしまうのではないかという不安が生じるが、政治的事務の位置づけを曖昧にし、これが政治的中立に包含されてしまうと、政治的事務は統制困難となり昭和陸軍のように政治的事務が政治を超える危険がある。

「歴史の教訓」特に「大日本帝国の教訓」の観点から公務員人事を語るならば、同人事で重要なことは政治的事務の存在を曖昧にせず直視し、これが政治を超えるのを防ぐことである。

学術会議騒動では菅首相の推薦名簿の閲覧、任命拒否の理由説明云々といった批判がなされているが、これはまさしく昭和陸軍と同様、政治的事務が政治を超えようとする所業であり、菅首相は毅然とした態度をとるべきである

学術会議に求められることは法で定められた使命・目的を達成することでありそれ以上でもそれ以下でもない。決して「独立性」の名の下、政治を超えることではない。

推薦された105人内6人の任命拒否があったからといって学術会議の使命・目的の達成に支障が生じるとは思えない。任命拒否された学者の「学問の自由」も否定されていない。その他特別な義務も課さられていないし権利侵害もない。任命拒否による具体的な悪影響はないと考えて良いだろう。

学術会議騒動とは単なる「赤」と「カーキ色(日本陸軍の軍服の色)」が混ざった組織がただ一方的な主張をしているだけであり国民生活に全く関係ない話である。

次期国会で学術会議の審議をするとしても「改革」「民営化」の言葉を軸に審議すべきだろう。

(参考文献)
丸山眞男「〈新装版〉現代政治の思想と行動」未來社 2006年