>>>「① 米国大統領選挙から日本のあり方を考える」はこちら
前回に続いて、日本における協力・連携についてのマクロな構想について言及する。これは、再度「空想的社会主義(エンゲルス)」となじられる恐れもあるが、サン・シモン主義的考え方の復活を図るべきだということである。
冒頭で米国の分断について述べたが、同国の最も極端な分断は、貧富の格差だ。人口にして上位1%の富裕層が約3割の家計資産を有していると言われる。上位10%で7割超との調査もある。コロナの影響で、この傾向はますます強まると考えて良いであろう。
一億総中流などと言われていた日本も、相対的貧困率(可処分所得の中央値の半分に満たない所得層の率)の高さで、OECD34か国中、トップ10(実質的な意味でワースト10という意味)入りが状態化してきている。子供の貧困率は約14%(7人に1人)にもなっている。
現在のみずほ銀行や王子製紙など500社以上の創業に関わり日本の資本主義の父とも言われる渋沢栄一は、合本主義を唱え、特定の財閥や個人だけが儲ける体制をよしとはしなかった。ドラッカーの評価が特に高いが、開発途上国や社会主義体制からの移行期などでよく見られる新興財閥層の富の独占が、日本では比較的見られなかったのは、そうできる状況にありながら、自ら「渋沢財閥」を決して残さなかった渋沢栄一の影響が大きいとも言われる。
フランス文学者の鹿島茂氏が主唱者であるが、約1年半にわたる滞仏経験を持つ渋沢栄一に、サン・シモン主義の影響を見る向きがある。産業を社会の基礎におきつつ、資本家と労働者が対峙する暗い世ではなく、労働者が安らかに暮らせるように資本家と労働者が互いに尊重し合うような世の中を想定していた。経営者が過度の報酬を取るなどせず、「労使協調」がキーワードでもあった高度成長期の日本企業などが、ある意味サン・シモン主義者の理想に近い状態であったかもしれない。
「人は自分のためにだけ生きられるほど強くない」と喝破したのは三島由紀夫であるが、国際的な存在感がどんどん落ちている中、元気のない日本の企業人・起業家は、いまこそ、「自分たちがしっかりと稼いで、多くの雇用を生んで、社員や社会を救うのだ」と、社会全体での連携・協力を模索すべきではないか。
政治も官僚も、足の引っ張り合いではなく、どのように「あらゆる富の源泉である産業」を活性化していけるのか、協力しながら真剣に議論すべきではないのか。菅政権肝いりの成長戦略会議では、おざなりのシャンシャンの議論ではなく、時に深夜まで続くような、こうした本質的な議論を期待したい。
民にあって、そういうプラットフォームを弊社こそが本来は提供しなければならない、と感じ、空想で終わらせてはならないと思いつつ、「みょうこうミライ会議」などの、一国から見れば、まだまだ小さなチャレンジで終わっている。ただ、ミクロな動きの横展開と、マクロな構想からの動きと、大きく攻めたいと気宇だけは壮大である。
他の産業人だけに期待するだけでなく、2024年頃から1万円札の肖像となるとされている渋沢栄一翁の顔を、間もなく10周年を迎える株式会社の弊社こそが沢山拝まねばならないが(その頃はキャッシュレスでご尊顔を拝謁する機会は少なくなっているかとは思うが)、情けないことに現実は厳しい。