ある事業活動を評価する場合、定められた目的を達成したかどうかが、活動の評価基準である。評価者もそれにそって評価をしなければならない。
立案の評価の一部としては、目的の妥当性も評価するだろう。しかし、実施活動の部分を評価する際には、立案された目的が達成されたかどうか、を基準にして、評価をしなければならない。
評価者が、自分勝手に頓珍漢な目的めいたものを持ち出し、それを振りかざして独善的に実施活動を批評するようなちゃぶ台返しの行為は、そもそも評価と呼ぶべきものではない。単なるイデオロギー論争である。
日本学術会議や、新型コロナ対策に対する一部の人々の言説を見ると、「評価とは何か」に関する基本的な理解の欠如、または意図的な拒否、について、深刻な懸念を抱かざるを得ない。
日本学術会議の評価は本来どうするのか
日本学術会議を例にとろう。日本学術会議法第2条は、同会議設立の目的を、「科学の向上発達を図り、行政、産業及び国民生活に科学を反映浸透させること」と定めている。いわば科学者が十二分に活動できるように側面支援をするのが、日本学術会議の目的だ。
科学の向上発達を図る側面支援を、日本学術会議を通じて行うことが、日本学術会議法が掲げる「目的」である。会員に栄誉を与えることや、会員の既得権益を守ることや、若手研究者の研究時間を吸い上げることなどを強引に正当化する行為は、むしろ日本学術会議法の趣旨に反する。
日本学術会議の運営を評価することは、この目的の達成度を審査することである。目的達成を促進する要素は肯定的に評価すべき事柄であり、目的達成を阻害する要素は否定的に評価すべき事柄である。
私は、日本学術会議の中で共産党系の特定の政治勢力が既得権益を持ち、日本学術会議を通じて軍事目的の研究を禁止する運動などを推進していることを、否定的に評価すべき事柄だと考えている。ただし、私は、共産党員ではないから、そのように言うのではない。学問の自由や天皇の首相任命権とのアナロジーなども、全く関係がない。
イデオロギー論争に陥った「評価」
日本学術会議法にとっての問題は、その特定の少数者集団の存在が、法が掲げる目的の達成を阻害しているか、促進しているか、だ。軍事研究なるものをイデオロギー的観点から糾弾し、自由に進展すべき「科学の向上発達」を阻害する勢力は、日本学術会議法の目的に反する勢力だと考えるべきだ。
法の趣旨にそって考えることを拒絶し、イデオロギー的立場を優先させる態度は、法をイデオロギーに屈服させる態度であり、法の支配の理念に反する態度である。
非武装中立論という考え方がある。一切の武力を持たず、中立を貫くことの正しさを主張する立場のことだ。この考え方にしたがうならば、日米同盟や自衛隊の運営を通じた安全保障政策は、間違っている、という結論しか出ない。
だが、言うまでもなく、これは単なるイデオロギー論争だ。イデオロギー的に「目的」の内容を争うことと、事業活動を通じた「目的」の達成度を「評価」することを、混同してはならない。
日本政府は、絶対平和主義を標榜して非武装で中立であること自体を「目的」として掲げていない。憲法学者という社会集団がイデオロギー的に偏向してため、見失われているが、実は日本国憲法典にもそのような「目的」が書かれていない。
日本の安全保障政策の「評価」は、日本政府が設定した目的の達成度に即して、行うべきだ。憲法前文からきちんと読んで判明する目的体系にそって「評価」すべきだ、と言い換えてもいい。
「日本モデル」に異様に執着、民間臨調報告書
もう一つ、事例をあげよう。日本における新型コロナ対策を評価したという「一般財団法人アジア・パシフィック・イニシアティブ. 新型コロナ対応・民間臨時調査会 調査・検証報告書」だ。
数多くの政府関係者に対するインタビューの内容等が記されており、資料的価値は高いだろう。だが資料集の作成それ自体は、「評価」行為ではない。
同報告書は、「日本モデル」という概念に独自の定義を与え、それが普遍的なものであるかどうかといったことを評価基準として、日本の新型コロナへの取り組みの総合評価としようとしている。しかし実際には、それは「評価」ではない。自分勝手な目標を持ち出してきて、それを振り回して他人の行動を批評するだけの行為は、単なるイデオロギー論である。
元朝日新聞社主筆で、現在は一般財団法人アジア・パシフィック・イニシアティブ理事長であり、報告書作成をプログラム・ディレクターとして主導した船橋洋一氏は、民間臨調報告書の冒頭から、異様なまでに「日本モデル」とは何なのか、について問いを発し続ける。
「日本モデル」と言われるものの正体がはっきりしない。国民の不安がなかなか消えないのも故なしとはいえない。そもそも「日本モデル」とは何なのか。・・・
「日本モデル」は感染症拡大防止と経済安定の「両立」がうまくいってこそモデルとして高らかに宣言できるはずのものだ。しかし、肝心の政府はいまだにその論理を明確にしていないし、公式見解も示していない。(同報告書「序文」)
船橋氏は、緊急事態宣言終了時に安倍首相が「日本モデルの力を示した」と述べたことが、よほど腹に据えかねたらしい。欧米より成績が良くても、台湾などよりも成績が悪いと力説したうえで、「日本」モデルの検証に気を取られていく。船橋氏は、「この報告書は、あくまで日本政府の対応と措置を検証することに眼目がある」と言いながら、「今回の検証は結果的には日本の取り組みに特徴的な「日本モデル」 をも検証することにもなった」と認める。
私が言っていることくらいは、船橋氏は最初からわかっているのだが、「日本モデル」を批判したいあまり、つい脱線した、というところだろう。船橋氏は、緊急事態宣言中から、「『日本特殊論』との決別が必要」「『日本特殊論』の幻想を持たないことだ」などといった主張に拘泥していた人物である。1980年代のバブル経済の批判を、2020年の新型コロナ対策の機会に繰り返す、という腑に落ちない行動をとり続けてきた。
参照:ポストコロナ「日本特殊論」との決別が必要な訳(アジア・パシフィック・イニシアティブ)
いまだに意地になって「日本モデル」の概念を否定する運動を盛り上げ続けようとしている、ということだろう。
報告書の最終章の「総括」でも次のように繰り返し続ける。
そもそも「日本モデル」は本当に「モデル」と呼べるものなのか。実施された政策群は、本当に科学的根拠と政策目標に基づく政策フレームワークなのか。そこに政権の意志、すなわち「戦略」はあったのか。…関係者の証言を通じて明らかになった「日本モデル」の形成過程は、戦略的に設計された精緻な政策パッケージのそれではなく、様々な制約条件と 限られたリソースの中で、持ち場の政策担当者が必死に知恵を絞った場当たり的な判断の 積み重ねであった。
船橋氏は、どうしても話を「日本モデルは何なのか」論にもっていきたいようである。その個人的な関心に引きずられて、政策評価の基準を、「政治家や役人は事前に『日本モデル』の『戦略的に設計された精緻な政策パッケージ』を準備していたかどうか」に設定するという致命的な錯誤を犯している。
船橋氏の個人的な関心を満たす説明を政治家や役人がしなかったので、腹を立てて「もっとカッコいい説明をしろ、そんなことではダメだ」と説教しているにすぎないという構図である。
確かにSARSの直接脅威にさらされなかった日本は、新型コロナの急襲に際して、初期対応で混乱を見せた。しかし2月中旬に押谷仁・東北大学教授らから構成される専門家会議が招集された後は、落ち着きを見せ始めた。2月25日に決定された新型コロナウイルス感染症対策本部の「新型コロナウイルス感染症対策の基本方針」では、次のように「対策の目的」が示されていた。
・感染拡大防止策で、まずは流行の早期終息を目指しつつ、 患者の増加のスピードを可能な限り抑制し、流行の規模を抑える。
・重症者の発生を最小限に食い止めるべく万全を尽くす。
・社会・経済へのインパクトを最小限にとどめる。
この方針は2月23日の「新型コロナウイルス対策の目的(基本的な考え方)」でも簡明に示されていた。
政策論は、目的達成の度合いから評価すべき
本来であれば、日本の新型コロナ対応の評価は、この「目的」設定の妥当性を考察したうえで、この「目的」の達成度を検証することによって、行われるべきである。
(関連拙稿)
「日本モデル」の概念で参照される「三密の回避」などの政策論は、目的を達成するための手段として機能した度合いに応じて、評価されるべきである。
ところが手段の概念化でしかない「日本モデル」を否定することに拘泥するあまり、「政治家や役人は『日本モデル』をきちんと説明しない、だからダメだ」といった結論につなげていく人々がいる。錯綜した議論である。
船橋氏のように、政府が説明している「目的」を無視したうえで、船橋氏の個人的関心を満たす「戦略的に設計された精緻な政策パッケージを準備していました、と政治家や役人が言うかどうか」を基準にするような態度は、「評価」ではない。
政府のリスクコミュニーケーションが十分とは言えなかったのは確かだろうし、そこが日本政府の弱点となる場合が多いことも事実である。しかしだからといって、日本政府が当初から説明している「目的」を無視し、押谷教授らの専門的知見に基づいた「戦略的」判断の洞察を無視し、残業続きで疲弊しているだろう役人たちをつかまえて「泥縄だったけど、結果オーライ」と言わせて、「日本モデルは再現性がないのでダメだ」と結論づけるような態度は、評価者の態度として、生産的なものだとは言えない。
残念だが、葬られる「日本モデル」
「日本モデル」という概念は、政府関係者が口にするよりも早い3月から、私が使い始めていた概念である。現場で疲弊している方々が、全体的な鳥観図を持つ余裕がないために、説明概念としての有用性を期待して、学者としての私が使い始めたものだ。役人の方々がそれを精緻に説明しなかったからといって、そんなことで彼らは責められるべきではない。
私が「日本モデル」の概念を導入したのは、日々の業務に忙殺されている役人の方々を助けるためであり、彼らを非難するためではない。
また、「日本モデル」の戦略的性格は、押谷教授の精緻な見解を中心的な対象にして検討すべきものである。船橋氏の報告書は、その中心人物である押谷教授らをほとんど無視している。
そのあげくに、政治家や役人が船橋氏の個人的関心を満たす説明をしない、という理由で、「日本モデル」はダメだ、といった飛躍した結論を導き出そうとする。評価者の責任を全うしない困った態度だと言わざるを得ない。
船橋氏らの報告書を売りまくるためのマーケティング運動によって、「日本モデル」の定義も理解も船橋氏によるものが一番知られたものになってしまったようだ。今後は、混乱を避けるために、私も「日本モデル」という概念を使うのを自重せざるをえないだろう。
「日本モデル」が、精緻な評価をへずして葬り去られることになってしまったのは、私としては非常に残念である。船橋氏の報告書の罪は重い。